しかし皮肉なことに、信繁を評価したのは味方ではありませんでした。最も高く評価したのは徳川家康です。家康は本多正純に命じ、信繁の叔父にあたる真田信尹を使者に信州10万石を条件に寝返ることを勧めます。
しかし信繁は、この誘いを断りました。このとき大坂城は和睦の条件だった外堀だけでなく内堀も埋められています。大坂城が誇った高い防御力は霧消し、信繁が築いた真田丸も破却されていました。
もはや勝敗は決しており、信繁としては今一度、おのれの才を天下に知らしめる、そのことに魅力を感じたのでしょう。こうして1615年、大坂夏の陣が始まります。
勝ち目のない戦いに挑む信繁
籠城できない大坂方は野戦での勝負に出ました。道明寺の戦いでは、信繁は先行する後藤又兵衛隊の後を追って参戦しますが、濃霧のため行路を誤り、着陣が遅れてしまいます。その間に又兵衛が討ち死にしたため、大坂方が撤退を余儀なくされました。
このとき信繁は殿(しんがり)をつとめ、伊達政宗隊を撃破します。信繁が、籠城だけでなく野戦でも無類の強さを発揮した瞬間でした。このとき信繁の残した言葉が
「関東勢百万といえども男はひとりもおらず」
よほど印象的だったのか、これは広く後世にまで伝わります。
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