当時小学校低学年だった田内さんは、いとこの大変な生活を見ながら「勉強ができる環境は普通ではない」と思ったそうです。
「親戚が関東にいたから浪人できた。運がよかったんです。僕の父親は最終学歴が中学校卒業で、仕事を見つけてお金を稼ぐのがいかに大変かよく知っていました。だからこそ、いとこを居候させて助けていたし、僕に対しても十分な教育を与えたいって思いがあったんです」
田内さんは、浪人生活で苦しむいとこの姿と、経済的に苦労する父親の姿を見て、小学生ながら自分も勉強をがんばらないといけないと思っていたそうです。そこには、「東大に行かなければならない」という父親からの刷り込みもあったと言います。
「父親は学歴に対するコンプレックスが強かったんです。だから僕を東大に行かせたかったようでした。小さい頃、テレビで東大生が出ていると父親は、いつも『お前が行く大学だぞ!』と言っていて、自分もまた『僕の大学の人だ』と言っていました(笑)」
しかし、周囲に東大に関する情報を持っている人もいなければ、情報を得る手段もありません。そんな田内さん一家に転機が訪れます。
灘を目指すために神戸に引っ越した
田内さんが小学校4年生のとき、とある事情から蕎麦屋を手放すことになります。引っ越し先を探していた父親の頭に浮かんだのは、日本最難関で、東大に一番近いと言われる灘中学校・高等学校。灘を目指すために神戸に引っ越すという決断をしたのです。父親は運転手などをして、受験費用を工面してくれました。
「茨城の小学校の先生に伝えると、応援してくださる方もいましたが、奇異な目で見られました。東大に行くために関西に転校する人など、周囲にはいませんでした」
こうして小学校4年生の終わりに関西に移った田内さん。
茨城から神戸に移り、父親がたまたま給油におとずれたガソリンスタンドの店員に聞いて得た「灘に行くためにいい塾」である浜学園に小学5年生から通います。
「月20万~30万円の給与の中から、中学受験の塾に通わせてもらっていました。前の小学校の成績は一番でしたが、塾にいるとたくさん頭がいい子がいて驚きましたね。でも、みんな『塾に行かせてもらって当然」という裕福な家庭から来ている感じだったので、彼らには負けたくないと思って勉強しました」
「灘に入れなければ意味がない」と父親に言われ、ほかの中学校は一切受験させてもらえませんでした。絶対に受かる状況で受験をしないといけないと思った田内さんは、猛勉強を重ねて6年生のときの浜学園の模試で1位を獲得します。ストレスで十二指腸潰瘍になったこともあったそうですが、無事本番で上位10番の成績を取り、灘中学校に合格しました。
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