山折:苦しみに苦しんで書き、人の気持ちを動かそうとする。ラブレターはひとつの典型ですね。社員に対するスピーチも、本当は同じでなくちゃいけませんよ。知識の披歴、認識の披歴で終わりになってしまうケースが、最近は多いのではないでしょうか。
これは以前、葛西さんがおっしゃっていたことですけれども、現代の教育を考えるうえで、戦前の旧制高校の教育にも参考になる面があるのではないか、と。旧制高校の教育のすべてがよかったとは必ずしも思いませんが、大筋として私は賛成です。
旧制高校における、教養を身につけるための教育。いちばん基本にあったのは、旧制高校の学生たちは、文系であろうと理系であろうと区別なく、まず「人間とは何か」という問いが最初にあった。その次が「日本人とは何か」。日本の高校にいるんだっていう自覚です。3番目に「汝は何ぞや」。自己とは何かを問われた。
人間とは何か、日本人とは何か、自己とは何か、この3つのことを、らせん状に教師は学生に突きつけるし、自らも語る。学生もそれを考えた。このレベルでは、「理系だ」「文系だ」って今、我々が言っているような問題は存在しない。広い教養の世界でどう自己を鍛えるか、という課題につながっていた。これは継承していかなければならないと思います。
海陽学園へ託した思いとは?
葛西:同感です。人間とは何か、日本人とは何か、自己は何かという問いは、座標軸みたいなもの。いろいろな本を読んだり、いろいろな知識を身につけたりしたときに、その座標軸の中に位置づけるような形で何かそれを吸収していくことが必要です。ところが、今はそれがなくなっています。
山折:海陽学園での教育も、そういう思いがあるのでしょうか。
葛西:旧制高校のようなものを、というわけではありません。それを今の先生方に委ねる、というのは無理があります。ひとつ言えることは、実践の場を作ろうということでした。今、3世代が一緒に住む家庭というのは少なくなっており、兄弟がいる家庭も以前に比べると少ない。人と接点を持って、まさに人間とは何かを体験として身につける土台が不足している。ですから、我々の学校の狙いというのは、少なくとも1学年120人、6学年720人が一緒に共同生活をするということ。その中で、対人関係の原体験を持たせることで、いろいろな問題についての理解能力を高めていく。そこから入っていこうとしています。
友達同士でいろいろな話をする。あるいは、いろいろな人がいる中で、自分がどのように身を処していくかということを体験的に学ぶ。全寮制のよさはそこにある。それがあると強くなるんですね。知識の習得はほかの学校と同じようにやりますが、人間というものに対する原体験を学ばせるところに特徴があります。
山折:私は、敗戦のとき旧制中学2年でした。それで大学に入って1年だけ、寮生活をした。そこには旧制の先輩たちも交じっていました。結局1年間で出たんです。確かに寮生活は、家庭にいては知ることのできない人間関係がある。いいことだけでなくけんかもしましたし、葛藤もあるわけです。そういった意味では、人生を縮小した形を、初めから体験させられるということはあるわけですね。中には個人主義を最後までとおすやつもいるし、仲良くなる人間もいる。本当にいろいろな人間がいることを体験しました。
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