外国人から、心の奥底では軽蔑されている
――近年、日本では教養がブームになっていますが、そこで語られるのは、西洋的な教養が中心です。グローバル化が進展する中で、われわれはあらためて、「日本人としての教養」を見直す時期を迎えているのではないかと思います。西洋の猿マネとは異なる、日本らしい教養というのは、どういうものなのでしょうか。
山折:20年近く前に、東京のある経済団体から依頼を受けて講演をしたことがあります。その後の懇親会で、ある日本を代表する企業の会長さんがひとり出てこられて、突然こう言われたのをよく覚えています。
「自分の会社は海外にいろんなかたちで展開しており、従業員の半分以上は外国人になっている。積極的に外国人を幹部に登用しているし、外国人幹部のほとんどは日本の経済力を非常に尊敬している。しかし、心の奥底でどうも軽蔑されているような気がしてならない」
鷲田:それは海外の人が日本人を?
山折:そう。海外の幹部社員から、自分たち日本人が軽蔑されているということです。明治以降、日本人は近代化に成功したけれども、政治、経済、刑法、憲法などあらゆる制度を西洋から学んできました。近代化に役立つほぼすべてのものが、西洋からの模倣です。そういう状況であれば軽蔑されても仕方がない、というのがその会長の主張です。一種のコンプレックスですよね。
最後に、その会長さんが「日本人は、究極的には西洋人になる以外ないのでしょうか」と聞いてきたので、私は「西洋人になれるわけがないでしょう。あなたがおっしゃるように、日本の近代化の大半は模倣ですが、ひとつだけ例外がある」と答えました。
――その例外とは何でしょうか?
日本人がこれまでつくりだしてきた芸術作品です。芸術の世界だけは、決して西洋にも劣らない。いかなる外国人、西洋の人間たちといえども、軽蔑することはできないはずだと。日本人の伝統的な芸術の中に流れている精神性みたいなもの、つまりは、芸術と精神、芸術と宗教だけはわれわれの誇りになる。
こう話したら、会長さんはしばらく考えて、「よくわかりました」と言っていました。それ以来、私が思っているのは、「日本の知識人やリーダーたちは、日本の伝統文化の中で最も大切なものを忘れている」ということです。そして、ここがおそらく、これからの日本人の教養を考えるうえで、非常に重要な点ではないかと思います。
教養というと、やれカントだ、やれシェークスピアだ、やれゲーテだ、ということになっていますが、これはとんだ誤認のもとです。やはり教養の根幹は、われわれ自身の文化の中にある何ものかですよ。今の日本のリーダー層は、その何ものかに到達できていない。
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