対談(その1):日本人の教養と、根深い西洋コンプレックス
対談(その2):教養をめぐる、経済界トップの勘違い
対談(その3):現代の科学者には、どんな教養が必要か?
コンテキストとネットワーク
鷲田:これまで、江戸時代、明治、戦後の教養について語ってきましたが、そのどれにも共通して目指したものがあると思います。
ひとつは、あるものに直面したときや、あるものを見たときに、どれだけコンテキストを持っているかということです。つまりひとつの事柄に対して、「こういう視点から見ると、こういうことが見えてきて、こういう問題も見えてくる」というふうに、どれだけたくさんのコンテキストを持って見られるかです。
もうひとつは実践的なことで、ある事柄を解決するときに、どれだけの人のネットワークを深められるかです。教養というのは、単に、コンテキストをいろんな面から見られるだけでなく、問題を解決するために、どんな人のネットワークを使えうるかということです。本当は、現代の科学者もそういう意味での教養を求められています。
システム工学や情報科学の最先端に取り組んでいる人が、あるアイデアを思いついたとしても、それだけでは何もできません。それを、何かひとつの商品や制度にまで落とし込むためには、さまざまなネットワークが必要になります。物を作るならば材料学のプロがいるし、コスト計算をするためには経営や財務のプロもいるし、世間や政府の関心を引き寄せるには広報のプロもいります。
要するに、細分化された現代の社会では、自分とは全然違う専攻領域の人を巻き込まないと、情報科学の新しい発見すら形にならないわけです。だからこそ、各分野の人たちの特性、たとえば、財務の人のこだわりはこのあたりにあるとか、デザイナーの人を説得するにはここが重要だとか、いろんなツボを知っていないといけない。そのためには、普段からアンテナを張って、自分とは違う専門の人たちが何にこだわって仕事をしているかを観察する必要があります。これが私のいうコンテキストを知るということです。
このコンテキストとネットワークの2つが、現代的な教養のコアにあるものではないかと思います。
山折:それは、マネジメント能力やプロデュース能力と言ってもいいものですか。日本の文化、情報、教育の世界では、「本当のマネジャーがいない」「プロデュースする人がいない」という言葉をしばしば耳にします。
鷲田:そう言ってもいいと思いますが、マネジメントという言葉を使ってしまうと、またその筋のプロを連れて来ないといけない、という話になるおそれがあります。
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