しかも、読み進めれば読み進めるほど新たな不思議にぶち当たる。そもそも女のふりをして書いているという時点で自由すぎるが、作者の紀貫之先生は妙に不自然なディテールにこだわっているように思える。
どこに向かっているのかわからない航海
たとえば、出発して数日が過ぎ去った九日の記事。
このように美しい景色を眺めながら漕いでいくうちに、山も海もすっかり暮れて、夜が更けて、西も東もわからず、天候のことは楫取に任せるしかあるまい。慣れていない男にとっても船旅は本当にきついが、女である私たちはもっともっと心細く感じる。船底に頭を押し付けて、声をあげて泣くばかりです。
暗闇に包まれた船がゆらりと進んでゆく。地上であれば、前国司や彼に仕えている人々は身分の低い船乗りを偉そうな態度でこき使うに違いない。
しかし、いざ海に出てしまうと、立場が逆転して、楫取りが彼らや彼女らの運命を握ることになる。しかも、女は泣いて、男は不安が募るといった切羽詰まった状況にもかかわらず、楫取や水夫たちは歌を歌ったりして、呑気なものでる。空気をまったく読めていないというか、珍しく優位に立ってかなり楽しんでいるご様子。
社会的立場を失った前国司たちは、夜間の航海は特につらく、方向感覚まで奪い取られている。上記した九日の記事のなかにも「西東も見えずして」とあったが、あたり一面に広がる海に囲まれている一行は、しかるべき方向に進んでいるのかどうかすら確信が持てない。はたして都にたどり着けるのだろうか……と読みながらこちらまでハラハラしてしまう。
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