「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」というふうに始まる『土佐日記』は、まさしく「言葉のルールを破りまくる」という画期的な試みのもとに生まれている。
国司の任期を終えて帰京する紀貫之は本来の姿をくらまし、女性として筆を走らせるわけだが、「オトコ言葉」対「オンナ言葉」にとどまらず、本作はいろいろな「意外性」を秘めているのである。
秩序が何度も覆される
自分の内面や感情など、男性官人が日記のなかで書けなかったことを書くために、作者の紀貫之が、架空の女性に仮託しなければならなかったという解釈が現在の通説だが、50日以上も続く海の旅の間には不可解なことがたくさん起こって、『土佐日記』においては秩序が何度も覆されている。
まずは、身分違いや大人と子供の区別がしっちゃかめっちゃかだ。
ときは930年前後、年の暮れが近づいている頃。とある官僚(つまり紀貫之)と一緒に帰京することになった一行は出発の準備に取り掛かる。
二十二日、せめて和泉国までたどり着けるように、神仏に願いをかけた。そのときは上・中・下なんぞ関係なく、みんなすごく酔っ払った。塩海は魚が腐らないが、すぐ海のそばにいてもなお誰もが腐ったように潰れていた。
平安時代の船旅は大変危険なものだった。海賊に遭遇する可能性だって高いし、波に飲まれてしまってもおかしくない。レーダーもなければ地上と連絡が取れる無線機ももちろんなく、神様に祈りを捧げるしかない。
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