読書をしてたそがれ時のつれづれをまぎらわす。手を伸ばして、無造作に積んである本から一冊を取り出し、パラパラとページをめくる。切れ目がはっきりとしない文章の中で、瞬間瞬間の自分の心の姿――悲しかったり、うれしかったり、ときにがっかりしたり、意味もなく落ち込んだり――そのすべてがそこにある。言葉のリズムに身を任せて、夢うつつの時間がぼんやりと過ぎ去ってゆく…。
こんな書き出しをすると、どこぞの貴族の令嬢だろうか?と思われても仕方あるまい。しかし、自己弁護のために言うと、それは全然違う。私は(一応ギリギリ23区内ではあるが)東京都内のちょっと外れたところでひっそりと過ごす生粋のイタリア人なのだ。
なぜ生粋のイタリア人が古典に惹かれたのか
懺悔することが多々あるなか、一番の変態癖はずばり日本の古典文学に対する究極の愛。職場ではもちろん秘密にしているし、親しい友達以外の人にカミングアウトするのは恐ろしくてできない。コテン!?と白い目で見られて聞き直されることがしばしばあり、今やその趣味は誰にも打ち明けたりはしないが、やはりやめられない。
〈オリジナリティ〉という言葉がある。ネタの奇抜さと勘違いされることが多いのだが、自分が出てきたところ、つまり〈origin=オリジン〉をしっかりと持つこと、いわば自分が本来持っているはずの独自性のことを指しているそうだ。
そのオリジナリティを育てるべく、世界へ目を向ける前に自分のルーツを知ろうじゃないかと大学の偉い先生たちが「古典文学回帰」を訴えているが、私は違う。日本文化に感化されているところはあるが、日本は私のオリジンではない。古典についても知らないことがいっぱいあるし、正直係り結びの法則はちょっと苦手でもある。
ではなぜ誰にも強制されていないのに、わざわざ古典文学を読もうと思うのか?答えはただ一つで、そして極めてシンプル。面白いからだ。
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