「徳川家康」死地の信長救い、武名が轟いた舞台裏 後詰めを使う家康の戦略眼と徳川軍の精強さ

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『信長公記』には、織田・徳川軍は、この浅井・朝倉軍の動きを撤退と勘違いし、陣を横山城の包囲に向けようとすると姉川正面に突如、浅井・朝倉軍が出現し奇襲のような形で合戦が始まったと記されています。ただし互いに陣形を整えずとも記されているので、出合い頭、もしくは織田・徳川軍が咄嗟の判断で迎撃を行ったことにより、浅井・朝倉軍もベストの状態での開戦とはいかなかったのかもしれません。

NHK大河ドラマ『どうする家康』 浅井長政 大貫勇輔
浅井長政の不運はどこにあったのか?(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

崩れる織田軍を救った精強な徳川軍

完全に裏をかかれた状態の織田軍は一時、総崩れになるありさまでした。逸話には織田軍十三段の備えのうち十一段が突き崩され、信長の本陣近くまで攻め込まれたとあります。
最近の研究には、このあたりの地形で陣を十三段も組むことはできなかったのではないかという説もありますが、いずれにせよ織田軍は壊滅寸前だったことに間違いはなさそうです。ここまでは長政が、あと一歩のところまで作戦を成功させていたことになります。

その信長を救ったのが家康でした。

家康は自身も朝倉の大軍と戦いながらも、織田軍の苦戦と、その織田軍に全軍をあげて突き掛かっている浅井軍の陣形が長く伸びてしまっていることに気づきます。

そこで家康は、後詰めとして残しておいた榊原康政に命じ、浅井軍の側面から攻撃させます。ここが勝負どころと見るや、危険を顧みず自軍の大切な後詰めを投入する家康の、恐るべき戦略眼です。しかも徳川軍は朝倉の大軍を押し切ってしまいます。こうなると、奮戦していたものの孤立した浅井軍も崩壊、潰走しました。しかし織田・徳川軍は深追いせず、横山城の包囲に切り替えます。

こうして浅井・朝倉の奇襲ではじまった姉川の合戦は、織田・徳川軍の劇的な逆転勝利となりました。

この戦の最大の勝因は、徳川軍の圧倒的な働きにあります。徳川軍に絞れば完勝と言ってもいいでしょう。主だった配下の武将を討ち取られることなく敵の主力・朝倉軍を打ち破るだけでなく、崩壊寸前だった織田軍を救う決定的な攻撃をこなしたのです。

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