武田信玄による駿河侵攻とは
1568年12月、武田信玄は満を持して駿河侵攻を開始します。
この前年、駿河侵攻に反対した嫡男・義信を幽閉し、その妻であり今川義元の娘でもある嶺松院を駿河に送り返しました。なおかつ四男・勝頼の正室に織田信長の娘(養女)を迎え入れ、駿河侵攻の手はずを整えます。
信玄は、さらに徳川家康にも同盟を申し入れ、東と西から今川家を挟み撃ちにする策に。まさに戦国最強の名にふさわしい、水も漏らさぬ侵攻作戦です。
駿河を守る今川氏真は、この武田勢を迎え撃つべく薩埵峠まで出陣しますが、重臣たちの多くはすでに武田方への内通を決めていたため、氏真はやむなく駿府の今川館に退却します。
武田方は、その機を逃さず一気に駿府へとなだれ込みました。氏真は抵抗することもままならず、妻とともに朝比奈泰朝のいる掛川城へと脱出します。これが北条家を刺激することとなり、北条家は今川家を支援し武田との交戦を開始。北条の参戦は、信玄の計算を狂わせました。やむなく信玄は制圧間際の駿府を一度諦め、本国へ撤退します。
さらに同盟を結んでいた徳川との間にも問題が生じました。武田の今川侵攻別動隊である秋山虎繁が、徳川方の侵攻地である遠江に干渉したのです。このことで家康は態度を硬化。氏真の立て籠もる掛川城を攻めていた家康は氏真と和睦し、さらに北条とも和睦します。そして北条は上杉と同盟を締結。信玄は一気に不利な状況へと追い込まれます。
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