しかしながら氏康は病に倒れ、十分な指揮を執れぬまま亡くなってしまいました。これは信玄にとっては望外の幸運で、すかさず氏康の後継者である氏政と交渉し和睦、同盟に成功するのです。逆に家康にとっては想定外の出来事でした。
信玄による家康への対応
実力、キャリアともに家康を遥かに凌駕していた信玄ですが、実際のところ、この駿河侵攻における家康をどう捉えていたのでしょうか。
まず、家康が今川、北条と同盟したことを知った際、おそらく意表をつかれたのでしょう。信玄は家康の同盟者である信長に手紙を出します。そこには、
「家康は、今川、北条と和睦しないと誓詞を出したのにかかわらず、それを平然と破った」
と怒りをあらわにしています。そのうえで
「織田から家康に今川、北条と断交するように圧力をかけろ」
と要請しました。さらに信玄が駿河を制圧した翌年も信長に手紙を送り、
「徳川家康ほど悪い奴はいない」
「あいつは誓詞を出したのに平気でそれを反故にする」
とブチ切れモードで手紙を送っています。
信長は信玄の実力を高く評価し、かつ恐れていたので、なんとか家康を説得しようとしますが不調に終わります。同盟関係でありながら家康が信長の下風に置かれるのは、信長の勢力が拡大し、力の衰えを見せ始めた信玄亡きあとの武田攻めあたりのこと。まだ、この時期は信長の意見も無視できる対等の存在でした。
したがって信長は、同盟相手の徳川と武田が敵対しているという困った状況に置かれていたことになります。
信玄は、駿河制圧後も家康との和睦を望んでいたようで、その取りなしをなおも信長に依頼した記録が残っています。しかし家康は、その信玄の面目を潰すように改めて武田との同盟破棄を宣言、このことはのちに信玄が遠江侵攻を行った際、
「(同盟破棄を一方的に通告されてから)3年の鬱憤を晴らす」
と味方に送った書状にあり、よほどこの件で信玄に恨みを買っていたことがわかります。
信玄の怒りは、家康最大の敗北となる三方ヶ原の戦いへとつながっていくのです。
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