豊臣秀吉「信長を呼び捨てし、兄弟を処刑」 "人たらし"の虚像に隠した冷血な本性

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大阪城
大阪城(写真:でじたるらぶ/PIXTA)
豊臣秀吉といえば、「人たらし」の異名を持ち、持ち前の愛嬌と機転で信長の下でスピード出世を遂げ、ついには天下人となった世渡り上手というイメージが定着しています。しかし、その華々しい成功の裏には、冷徹な現実主義者としての顔がありました。本稿では『血脈の日本史』より一部抜粋のうえ、秀吉の冷血な本性に迫ります。

実の妹や弟を容赦なく殺した秀吉

秀吉の冷酷さを裏付けるのが、イエズス会の宣教師であるルイス・フロイスの『日本史』に記された一件です。その記述によれば、ある日、突然「私は豊臣秀吉様の弟です」と名乗る男が現れたというのです。

言ってみれば、八代将軍の徳川吉宗の落胤を称する偽物が現れ、結局は処刑されるあの事件、江戸時代に芝居や講談で有名になった「天一坊事件」のような話でしょう。ただし天一坊は虚構の色が濃いのに対し、秀吉はこの弟騒動を「そんな馬鹿な」と一蹴することはありませんでした。

「もしかすると母が自分たちの知らぬところで産んだ子なのではないか」と本気で考えたのでしょう。

ここで秀吉の家族構成を振り返ると、父は木下弥右衛門、母はのちに大政所と呼ばれたなか(おなか)です。のちに豊臣秀次の母となる姉と秀吉を生んだのち、弥右衛門が亡くなり、母は竹阿弥という人物と再婚します。その間に生まれたのが、弟の秀長と妹の朝日姫でした。

ただし、父である弥右衛門と義父である竹阿弥という二人の存在については史料が乏しく、同一人物なのではないかとする研究者もいます。なお、秀吉は竹阿弥と折り合いが悪く、早くから家を飛び出したとも伝えられています。

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