家康は色好みだった?
家康が生涯抱えた側室は、20人近くにのぼりました。
信長は把握されている側室が9名なので、家康は信長の倍以上の側室を持ったことになります。いっぽう、ずば抜けて好色とされる豊臣秀吉は300人いたと言われ、さすがにこの人数には誇張もあると思いますが、信長や家康より、はるかに多くの側室を抱えていたことは間違いないでしょう。
『どうする家康』では、家康と正室である瀬名の恋愛関係が描かれていますが、少なくとも家康が浜松城に移ったあたりからは関係が悪化していたようです。瀬名は岡崎に留め置かれ、2人の間に子が生まれることはありませんでした。最近では、瀬名が人質交換直後から岡崎城内ではなく近郊の寺院に住まわされていたことから、すでに離縁されていたのではないかという説まであります。
一方で家康は瀬名の死後、正室を迎えることはありませんでした。
後年、秀吉の妹である旭を正室に迎えますが、これはどちらかというと、秀吉による家康の懐柔策であり人質としての性質が強いため、夫婦とは考えなくてもいいでしょう。これを家康の瀬名に対する愛情ととるかどうかは意見の分かれるところですが、記録に残る家康最初の側室は意外な人物です。その名は西郡の方といいます。
西郡の方は、家康の2人目の娘となる督姫を1565年に産んでいます。この西郡の方の父は鵜殿長忠。そう、瀬名奪還の切り札となった上之郷城の戦いで討ち死にした鵜殿長照の弟です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら