実際、家康の側室は長生きした女性が多く、最後の側室となったお夏の方は80歳、阿茶の局は83歳、次男の秀康の母である於万の方は72歳まで生きています。
家康は、じつに11人の息子と5人の娘をもうけています。
これは家康にとっての戦略でもありました。
戦国時代は、つねに生き残りをかけた戦いの日々です。どんなに優れた武将も、その武将が死んでしまえば、すぐにお家は滅亡の危機に瀕するでしょう。
若いころに桶狭間の合戦を経験した家康は、義元亡きあと、後継者が氏真しかいなかった今川家の悲劇を見ています。また、家康の同盟者であった織田信長には男子が3人いましたが、嫡男の信忠が父と同じく亡くなると、次男・信雄、三男・信孝が争い、結果的にそこを秀吉に付け込まれました。
その秀吉には秀頼しか男子がいなかったため、家康に政権を奪われます。
子だくさんゆえ磐石の徳川家になった
子が多いということは、それだけ身内の勢力が増えるわけですから、バックアップ機能としても実際の勢力としても大幅に増えるわけです。家康は11人も男子がいたので、それぞれが分家として兵を与えられ力を持っていました。これは徳川一門の層の厚さにつながり、徳川家を倒そうとするものにとっては大きなハードルとなります。
家康は、学ぶ能力に長けたリアリストです。
考えてみれば彼が尊敬したという源頼朝も2人しか男子(頼家、実朝)がいなかったため、北条氏に乗っ取られてしまいました。もし頼朝に家康と同じく11人も男子がいれば、歴史はきっと違っていたでしょう。家康にとって側室は、徳川家存続のための重要な戦略だったと言えます。
同時に、それらの側室を大事に扱い、決して不幸な目に遭わせなかったことも家康の一面であることをつけ加えておきたいと思います。
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