長忠は兄とは違い、家康に臣従することを決めました。その証として自分の娘(実際は養女としていた家老の娘)を差し出したのです。家康はこの娘を気に入り、側室としました。ちなみに、この西郡の方は長く家康の側に仕え、1606年伏見城で亡くなりました。家康の側室に対する扱いは丁寧で、ほとんどの側室が長寿を全うしています。
瀬名の侍女に手をつけた家康
瀬名が西郡の方をどう思ったかの記録は見つかっていませんが、それとは別に、家康は瀬名を激怒させるような女性と関係を持ちます。それがのちの於万の方、家康にとっての次男になる秀康を生むことになる女性です。於万という女性は、三河の社人・永見貞英の娘で瀬名の奥女中でした。それを家康がみそめたのです。
瀬名は2人の関係を認めませんでした。当時は正室が側室を認める権限をもっており、瀬名は於万に対して拒否権を発動。ところが家康は、それでもなお於万との関係を続け、あろうことか於万は懐妊します。
真偽のほどは定かではありませんが、自分の拒否権を無視された瀬名は激怒し、妊婦の於万を浜松城の木に縛り付け折檻したという逸話が残っています。確かなことは於万が追放されたことと、それに家康がなにも反応しなかったことです。結局、於万は重臣の本多重次の差配により出産を果たし、生まれた子は於義丸と名付けられました。しかし於万は追放された身ゆえ、於義丸は家康の子として認知されず、重次ら重臣のもとで育てられたといいます。
当時、家康は武田勝頼との対決を控え多忙であったため、親子の対面が遅れたとの話もありますが、それにしても冷たい仕打ちと言わざるをえません。
そんな於義丸を不憫に思って家康を説得し親子の対面を行わせたのは、瀬名の子であり嫡子の信康でした。信康が間を取り持たねば、家康は於義丸をわが子として認めなかったかもしれません。
そして、この於義丸に対する冷たさは後年、信康が切腹に追い込まれたあとにも現れます。於義丸は次男ですから、本来は信康亡きあと後継者に選ばれるはずです。しかし家康はそれを行わず、秀吉との和睦の際に於義丸を人質に差し出し、秀吉に命じられるまま結城家を継がせてしまいます。
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