家康にはこういう冷淡さがたびたび見られますが、同時に不思議な寛容さもあります。瀬名に追放された於万に側室としての地位を与え(ただし男女としての関係はなかったと思われます)成長した於義丸こと秀康の側にいられるようにします。
そして秀康が病死したあと、於万の方は家康の許しを得ずに出家しますが、家康はこれを責めることなく許しました。家康は、冷酷さと寛容さを持ち合わせる不思議な人物なのです。ちなみに家康にはもうひとり於万の方がいますが、こちらは、11男頼房の生母です。
家康に愛された側室は?
家康に気に入られた側室としては、阿茶の局があげられます。家康は側室たちが表向きのことに絡むのを嫌っていましたが、阿茶の局は側室というより家康の秘書のような役割を果たしていました。
阿茶の局は、甲斐武田氏の家臣飯田直政の娘で神尾忠重に嫁ぎ、2人の息子の母でもありました。しかし夫の忠重が亡くなり、未亡人となったところを家康に気に入られて側室となります。阿茶の局は才知に長け、周りへの気遣いや調整能力も優れており、つねに家康のそばに置かれるようになりました。その気に入られぶりは戦場にまで同行させるほどで、彼女は家康が秀吉と対決した小牧・長久手の戦いで流産してしまいます。
残念なことに阿茶の局は、その後、家康の子を身籠ることはありませんでした。通常、子の産めなくなった側室は暇を出されることが多いのですが、家康は阿茶の局に暇を出すどころか、生母を亡くした秀忠と忠吉(2人とも生母は西郷の局)の養育を任せました。実質的な正室の扱いです。
また、阿茶の局は外交でも重要な役割を果たしました。大坂冬の陣で苦戦した家康は、いったん豊臣家との和睦を画策します。大坂城内は主戦論者が多く、この和睦は難度の高いものでしたが、阿茶の局はこの和睦の使者として豊臣方と交渉し、その難役を見事にこなします。まさに家康にとってパートナーと言っていい存在でした。
とはいえ阿茶の局のような存在は特別で、家康の女性観はドライだったように思います。女性好きで知られる秀吉は身分の高い女性を好み、まさに女性を「漁る」かのような癖がありましたが、家康は側室の数は多いものの身分などにはこだわらず、むしろ身体が健康な女性を選んだようです。
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