「徳川家康」死地の信長救い、武名が轟いた舞台裏 後詰めを使う家康の戦略眼と徳川軍の精強さ

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いずれにせよ1570年に信長自ら兵を率い、さらに徳川家康も参戦する形で朝倉への侵攻が開始されました。このとき信長は、同盟している浅井長政には、この計画を知らせなかったようです。なぜなら長政が、織田との同盟以前に朝倉家と従属に近い形で同盟を結んでいたからです。信長としては、長政に知らせないことで朝倉への義理立てをさせ、織田・徳川の侵攻作戦を黙認させるつもりだったのでしょう。しかし長政は信長の思惑に反し朝倉と組んで、織田・徳川の背後から退路を断つ形で攻撃に踏み切ります。

絶体絶命の信長は、まさに身一つで戦場を離脱、窮地をしのぎました。これが、いわゆる「金ヶ崎の退き口」です。

浅井は宿敵である六角氏と和睦

京まで逃れた信長は、ここで軍の立て直しを図ります。そのためには一度、領地である岐阜に戻る必要がありました。その信長に、浅井・朝倉も素早い対応をします。

朝倉家当主・朝倉義景は、朝倉景鏡を総大将として近江に大軍を送り込みました。長政はこの朝倉軍と呼応しながら、なんと宿敵であるはずの六角義賢と和睦。信長の岐阜への帰還を阻止し、その道中で殲滅する作戦に出ます。しかし信長は、この朝倉・浅井・六角連合の隙をついて岐阜への帰還を成功させました。

長政の戦略眼は鋭いものの「金ヶ崎の退き口」と同じく信長のほうがつねに一歩早く、決定機をものにできません。さらに六角義賢は織田の柴田勝家、佐久間信盛に敗れてしまいます。信長は岐阜で態勢を整え、長政と雌雄を決すべく近江に進出しました。

一方の長政も朝倉義景に援軍を要請。義景はこれに応じ、朝倉景健が8000の兵で出陣します。信長は姉川を隔てた横山城を包囲し、自身は竜ヶ鼻に布陣。そこに徳川家康も着陣しました。長政は兵5000を率い小谷城から出て、朝倉景健が布陣する大依山に合流します。

こうして浅井・朝倉、織田・徳川が姉川を隔ててにらみあう形に。ここで長政は、またしても信長の裏をかき、決戦となった6月28日の前日に大依山から軍をひきました。

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