「紫式部の日記」に記された"明らかに異質な箇所" 突如手紙文体に、誰かに向けて書かれたもの?

✎ 1〜 ✎ 44 ✎ 45 ✎ 46 ✎ 47
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

パート2の最後のほうには、こうも書いてある。

「お手紙ではうまく書き続けられませんが、良いことも悪いことも、世間の出来事も、私自身が体験したつらさも、残らず申し上げておきたかったのです」

(御文にえ書き続けはべらぬことを、良きも悪しきも、世にあること、身の上の憂へにても、残らず聞こえさせおかまほしうはべるぞかし)

やはり誰かへのメッセージのようだ。その相手については、自身の娘・大弐三位(賢子)だったのではないかといわれている。

光る君へ 大河ドラマ 紫式部
大弐三位(賢子)の百人一首(写真: Kaisei / PIXTA)

賢子は長保元(999)年、もしくは長保2(1000)年頃に誕生。長和6(1017)年頃に母親を継いで彰子に出仕したとされている。

パート2で式部は中宮の彰子についても、その人柄について書き綴っている。このように評した。

「今は中宮様も、だんだん大人びて来られるに連れて、世の中のあるべき姿、人の心の良し悪し、出すぎたところや不足なところも全部見抜いていらっしゃいます」

(今はやうやうおとなびさせたまふままに、世のあべきさま、人の心の良きも悪しきも、過ぎたるも後れたるも、みな御覧じ知りて)

「今は」とあるように、かつての中宮・彰子はもう少し様子が違ったようで、もともとの性格について「何一つ不足なところはなく、上品で奥ゆかしくていらっしゃるのですが、あまりにも控え目な性格」と説明している。

彰子の本来持つ性格と、成長した今の姿まで伝えておけば、安心して出仕できるし、かつ、大きな失敗はしないのではないか。そんな伝える相手への気遣いもそこにはうかがえる。

最後は出家を考えながら宮仕えをしていた

宮中での人付き合いの大変さを実感している式部だけに、いわゆる「女房マニュアル」を娘に残しておきたいという親心は理解できる。

前述したように、このパート2のあとは時系列がわからないパート3を経て、パート4でまた日記に戻っている。 記されているのは、 寛弘7(1010)年1月15日までのことだ。

敦良親王の「五十日の祝い」での管弦の演奏について触れながら、次のように綴られている。これが、現存している日記としては最後の1行となる。

「道長様から帝への贈りものは横笛二本、箱に入れて送呈した」

(御贈物、笛歯二つ、筥に入れてとぞ見はべりし)

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事