パート2の最後のほうには、こうも書いてある。
「お手紙ではうまく書き続けられませんが、良いことも悪いことも、世間の出来事も、私自身が体験したつらさも、残らず申し上げておきたかったのです」
(御文にえ書き続けはべらぬことを、良きも悪しきも、世にあること、身の上の憂へにても、残らず聞こえさせおかまほしうはべるぞかし)
やはり誰かへのメッセージのようだ。その相手については、自身の娘・大弐三位(賢子)だったのではないかといわれている。
賢子は長保元(999)年、もしくは長保2(1000)年頃に誕生。長和6(1017)年頃に母親を継いで彰子に出仕したとされている。
パート2で式部は中宮の彰子についても、その人柄について書き綴っている。このように評した。
「今は中宮様も、だんだん大人びて来られるに連れて、世の中のあるべき姿、人の心の良し悪し、出すぎたところや不足なところも全部見抜いていらっしゃいます」
(今はやうやうおとなびさせたまふままに、世のあべきさま、人の心の良きも悪しきも、過ぎたるも後れたるも、みな御覧じ知りて)
「今は」とあるように、かつての中宮・彰子はもう少し様子が違ったようで、もともとの性格について「何一つ不足なところはなく、上品で奥ゆかしくていらっしゃるのですが、あまりにも控え目な性格」と説明している。
彰子の本来持つ性格と、成長した今の姿まで伝えておけば、安心して出仕できるし、かつ、大きな失敗はしないのではないか。そんな伝える相手への気遣いもそこにはうかがえる。
最後は出家を考えながら宮仕えをしていた
宮中での人付き合いの大変さを実感している式部だけに、いわゆる「女房マニュアル」を娘に残しておきたいという親心は理解できる。
前述したように、このパート2のあとは時系列がわからないパート3を経て、パート4でまた日記に戻っている。 記されているのは、 寛弘7(1010)年1月15日までのことだ。
敦良親王の「五十日の祝い」での管弦の演奏について触れながら、次のように綴られている。これが、現存している日記としては最後の1行となる。
「道長様から帝への贈りものは横笛二本、箱に入れて送呈した」
(御贈物、笛歯二つ、筥に入れてとぞ見はべりし)
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