そんな式部だけに、彼女が自身の日記を残していることの意義は大きい。藤原道長の娘で、一条天皇の中宮となった彰子にどんなふうに仕えていたのか。また、式部を取り巻く宮中での出来事や、彼女の心境の変化など、日記から多くのことが読み取れる。
ただし、のちに『紫式部日記』と呼ばれるこの日記は、単に日々の記録を残すものではない。少なくともそのなかの一部は、ある特定の人物に向けて残されたものではないか、と言われている。
異質なパートがある『紫式部日記』
2巻にわたる『紫式部日記』の内容は、大きく分けて4つ。冒頭は「秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」とあり、秋の訪れとともに、中宮・彰子の出産が近づき、土御門邸の様子が慌ただしくなってきたことを描写している。
この「パート1」では、寛弘5(1008)年秋から寛弘6(1009)年1月3日までの詳細が記録されている。一条天皇にとっては第2皇子で、彰子にとっては第1子にあたる敦成親王の誕生記録だ。それに加えて、生後3日目、生後5日目、生後7日目、生後9日目で行われる「産養(うぶやしない)」など内裏での諸行事における、貴族や女房たちの様子なども書き残されている。
「パート1」と同じようなスタイルで記載されているのが最後の「パート4」で、寛弘7(1010)年1月1日から15日までのことが書かれている。一条天皇にとっては第3皇子で、彰子にとっては第2子にあたる敦良親王の誕生記録である。
道長からすれば、彰子のもとに一条天皇との皇子が立て続けに生まれて、絶好調の頃だ。この2人の孫は道長の後押しによって、敦成親王は第68代・後一条天皇、敦良親王は第69代・後朱雀天皇と、いずれも天皇に即位することになる。
では「パート1」と「パート4」の間にある「パート2」と「パート3」には、どんなことが書かれているのか。
「パート3」では、年月不明の3つの逸話が記載されている。紫式部が道長と『源氏物語』に関わる和歌贈答を行ったことも「パート3」で紹介された逸話となる。
残るのが「パート2」だが、突如として手紙の文体となり、誰かに宛てて書いているようだ。式部の出家への迷いもそこでは綴られている。
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