さらに懐平からは「昨日、右府・内府、参入せらるるに、左相府、謁談す。而るに帥、 参入するに、謁せられず」と聞かされたという。つまり、道長はこんな行動をとったというのだ。
「右大臣の藤原顕光と内大臣の藤原公季が参られたときには、道長は会って話もしたが、藤原伊周が参ったときには、会おうとしなかった」
道長のあからさまな態度に懐平は「事の故有るか」、つまり、「何か理由があるのだろうか」と疑問に思ったようだが、その答えは明確であり、実資にはわかっていたことだろう。
当時、難産は物の怪のしわざとされていた。彰子の出産を阻む者といえば、どうしても亡き定子のことが思い出される。みなが「難産は定子の仕業だ」と噂するなかで、定子の兄である伊周も遠ざけられたようだ。
そんな物々しい雰囲気のなか、彰子は11日、30時間以上の難産の末、無事に敦成を産んだ。道長の喜びは、どれほどのものだっただろうか。
またもや運命に見放された伊周
お祝いムードのなか、またも運命に見放されたのが、伊周だった。伊周の外戚や縁者が、彰子や敦成、さらに道長も呪詛したとして処罰される。併せて、伊周も処分を受けて、再び表舞台から立ち去ることとなった。
伊周にとって一度目の挫折となった太宰府への左遷も、花山法皇に矢をかけたことだけではなく、一条天皇の母・詮子を呪詛した疑いもかけられた結果だった。
どん底から這い上がるも、またもや呪詛の疑いによって失脚した伊周。上昇志向が強い性格は、どれだけ抑えようとしても、どこかで出てしまったのかもしれない。何かと周囲に警戒心を抱かせてしまったことが、致命傷となった。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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