呪詛疑われて1年後に死去した伊周
のちに「長徳の変」と呼ばれる不祥事をしでかしたことで、運命が一転した、藤原伊周とその弟の隆家であったが、その後にたどった運命は兄弟でずいぶんと違ったようだ。
妹で中宮の藤原定子が、一条天皇との間に第1皇子となる敦康を出産。定子の死後も、一条天皇の皇子はほかにしばらく生まれなかったため、敦康がひとまずの後継者候補となり、道長は後見人として、道長の娘・彰子は養母として 、敦康をバックアップすることになった。
そんな流れのなかで、敦康の伯父にあたる伊周も、少しずつ復権していく。長保5(1003)年に従二位に叙せられると、その2年後の寛弘2(1005)年には座次を大臣の下、大納言の上と定められている。


















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