そして14日の「御斎会結願」には、道長に同行して大極殿に参ったようだ。道長が日記に次のように記している(『御堂関白記』)。
「直廬から大極殿に参った。権中納言と宰相中将が同行した」
「権中納言」は隆家のことである。
その剛腕ぶりからどちらかというと豪快なイメージがある道長だが、案外ジメジメしたところがあり、日記を読むと「公卿が行事にきちんと出席しているかどうか」を細かくチェックしていることがわかる。
かつて藤原実資は、3歳になった彰子の「着袴の儀」を欠席したことがあったが、その翌日には「道長が不快感を持っていた」と耳にする。実資は驚いて、すぐさま赴いて謝罪したという。
手痛い失脚によって成長した隆家は、そんな道長の細やかさも理解したうえで、積極的に行事に顔を出したのかもしれない。
『大鏡』には、行列の後方にいた隆家に同情して、道長が車に乗せた……という説話が紹介されている。少なくとも復帰後しばらくは、道長との関係は良好だったのではないだろうか。
眼病に苦しんで実資に相談した
兄・伊周の死後も、そんな隆家のスタンスは変わらず、長和元(1012)年9月20日には皇后御読経結願に参列。また10月27日には、大嘗会という宮中祭祀に向けての、天皇が川へ行幸して身を清める「大嘗会の御禊」にも参加している。
このときに、隆家は源経房や藤原兼隆とともに、華美な車を奉じて、道長を戸惑わせたという。型破りな性格は相変わらずだったようだ。
そんな隆家を悩ませたのは、眼病である。角膜の突き傷から細菌に感染し、化膿を起こしてしまったらしい。道長が長和2(1014)年1月10日の日記で、「去年の突目により、この何日か籠居している」と記している。
『小右記』によると、病状に苦しんだ隆家は、実資に相談したという。「九州の大宰府に宋の名医がいる」と知り、隆家は大宰権帥への任官を望み、それが実現することとなる。
実のところ、実資は「三条天皇は隆家の希望を汲んでくれそうだが、道長が妨げるのではないか」と展開を読んでいたようだ。この頃、道長は三条天皇と対立を深めていたことから、三条天皇が懇意にした隆家のことも警戒したらしい。
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