かつての政敵だった道長とも少しずつ交流が生まれるが、取り巻く状況はいつも刻一刻と変化していく。
道長の娘・彰子が懐妊し、一条天皇にとって第2皇子にあたる敦成が誕生したことで、亡き定子が生んだ敦康の存在は、第1皇子にもかかわらず、道長にとっては邪魔者でしかなくなってしまった。
そんな折に「伊周の外戚や親戚が、彰子や敦成を呪詛していた」という噂が流れて、伊周は再び失脚することとなる。『権記』によると、寛弘6(1009)年2月1日、藤原行成は道長から呪詛について、次のように伝えられたという。
「これは一条天皇の后・藤原彰子に対して、また若宮の敦成親王に対して行ったものである」
道長サイドにとってあまりにタイミングがよいため、でっちあげの可能性も高いが、伊周はあえなく処分されることとなった。
その後、彰子が再び懐妊したこともあって、6月には伊周の朝参が許されるが、もはや、気力も体力も限界だったのだろう。呪詛のゴタゴタから約1年後の寛弘7(1010)年1月28日、伊周は37歳で死去。その波乱の生涯に終止符を打った。
挫折によって「武闘派」から脱却
「世中のさがなもの(喧嘩っ早い荒くれ者)」
伊周の弟・隆家はそう評されるだけあって、かなりの武闘派だったらしい。藤原頼忠に無礼を働いたり、牛車で花山院の門に突進したりと、その手の逸話に事欠かない。
そして、極めつきが、兄の伊周とともに起こした「長徳の変」である。花山院に矢を射かけたとして、隆家も処分を受けて、出雲への左遷が決定。病気を理由に但馬にとどまったものの、伊周と同じく、京からは遠ざけられることとなった。
だが、この挫折によって、隆家は「さがなもの」から脱却したらしい。復帰後は、さまざまな行事に顔を出しながら、道長との関係性を地道に作っている。道長の日記『御堂関白記』、藤原行成の日記『権記』、藤原実資の日記『小右記』などに、その名がたびたび記載されている。
例えば、寛弘元(1004)年1月4日、道長が息子の頼通のところを訪れると、近衛府(このえふ)の官人たちが宴会を開き、隆家もこれに参加。衣を脱いで官人たちをもてなすなどして、楽しませた。
その3日後には、邪気を祓うとされる白馬を庭にひき出す白馬節会が行われて、隆家は叙位の宣命を読み上げる使者である叙位宣命使を務めた。さらにその翌日の8日には宮中に僧を招く「御斎会始め」にもしっかり参内している。
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