道長が嘆き悲しんだ、我が子の「まさかの行動」 人生順風満帆かにみえた道長の人生だったが…
一条天皇は皇太子問題で頭を悩ます
1011年5月、一条天皇は病に悩まされていました。藤原道長も日記のなかで「主上(天皇)が尋常ではない。今、とても重い病となられている。よって、参入した」と記しています。
その一方で、藤原行成は「天皇の病は快方した」と日記に残しています。一条天皇は病ではありましたが、重病が続いていたわけではないということでしょう。
そんな中、一条天皇は第1皇子の敦康親王を皇太子に就かせたいと考えていました。敦康親王の母は、道長の兄・道隆の長女である藤原定子です(定子はすでに死去)。
一条天皇は、侍従である藤原行成を召されて、敦康親王のことを相談しました。
行成はそれに対し「文徳天皇はかつて、第1皇子の惟喬親王を天皇にしたいと考えておられました。しかし、朝廷の重臣であった藤原良房の外孫(文徳天皇の第4皇子・惟仁親王=清和天皇)を帝位に就けざるをえませんでした」と過去の事例を持ち出します。
そのうえで「藤原道長も重臣であり、外戚でもあるので、彼の外孫である敦成親王(第2皇子。一条天皇と道長の娘・彰子の子)を皇太子にしたいと思うでしょう。主上(一条天皇)の御意志は、第1皇子の敦康親王を皇太子にすること。ですが、道長が難色を示すはずです。
そうしたときに、主上が病にて、御代が変わるようなことになれば、後見人なき敦康親王のお立場は弱いものとなります。このような大事は、神の思し召しに任せるべきです。人力の及ぶところではありません」と答申するのでした。
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