道長が嘆き悲しんだ、我が子の「まさかの行動」 人生順風満帆かにみえた道長の人生だったが…
順風満帆に見える道長の人生ですが、何もかも、自分の思い通りに事が運んだわけではありません。
1012年に、道長と源明子との間に産まれた藤原顕信(3男)が突如出家してしまうのです。顕信、19歳でした。
顕信は、革堂(京都にある天台宗寺院)の僧・行円を訪ね、その後、比叡山の無動寺に行き、慶命僧都を戒師として出家するのです。
道長が息子の出家に抱く葛藤
世を儚んだのでしょうか。『大鏡』によると、顕信の出家を知った道長は「悲しみ極まりないが、悔んでもどうしようもない。顕信が、父らの悲しみを知り、修行に励む心を乱しては、哀れだ。幼い頃、彼を出家させようとしたが、本人が嫌がったので、強制はしなかった。子どもの1人くらい法師になっても仕方のないことと諦めよう」と述べたとのことです。
実際、道長は顕信の出家に理解を示す言葉を日記に残しています。「自身(道長)が出家したいのに、未だそのことを果たしていない。よって、顕信の出家にどうこう言うのは罪となるので、やめておこう」「出家は顕信の本意によるものだから、諭しても無駄だ」と。
「顕信の出家にどうこう言うのは罪となるので、やめておこう」。道長のこの言葉には、顕信の出家に理解を示そうという想いと、心のどこかに出家を残念に想う心がないまぜになっているようにも感じられます。
顕信が出家して数カ月してから、道長は息子の様子を見に、比叡山に登っています。道長の親心というものを垣間見ることができるでしょう。従四位・右馬頭の地位を捨て、親にも告げず、突然の出家を敢行した顕信。その行為は、道長・明子夫妻を嘆かせました。
顕信は俗世に戻ることなく、無動寺で死去しました。1027年5月のことでした。この年の12月、道長も世を去りました。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013)
・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2013)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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