道長が嘆き悲しんだ、我が子の「まさかの行動」 人生順風満帆かにみえた道長の人生だったが…

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

一条天皇も、「忍び難い」お気持ちはありましたが、行成の回答に納得したようです。

その頃、道長は、皇太子である居貞親王(冷泉天皇の子。母は道長の姉・超子)と面会し、譲位のことについての話をしていました。一条天皇は、この居貞親王に譲位することになります。

譲位された一条上皇は、すぐに出家され、6月22日に崩御しました。道長の娘で一条天皇の中宮・彰子は、夫・一条天皇の譲位のことで、父を恨んだと言われています。病に苦しむ一条天皇を尻目に、譲位に向けて動く父・道長の姿に嫌悪感を抱いたのでしょうか。

長い間皇太子として過ごしてきた居貞親王は、三条天皇として、ついに帝位に就きます。この三条新帝の皇太子になったのは、彰子の子・敦成親王(4歳)でした。

敦成親王を帝位に就かせたい道長

三条天皇の母は、道長の姉・超子ではありましたが、道長が10代のときにすでにこの世を去っていました。道長の心中には、自らの孫である敦成親王をできるだけ早く帝位に就かせたい、との考えが芽生えていたのでしょう。

光る君へ 大河ドラマ 三条天皇
三条天皇の陵(写真: クロチャン / PIXTA)

三条天皇は、道長に関白就任を打診しますが、道長は固辞します。前代に引き続き、内覧(天皇と太政官の間を行き来する文書を事前に閲覧できる)・一上(左大臣の異称。第一の上卿)のままでいたいと道長は主張したのです。

関白になってしまうと、一上の役目は、右大臣に移行してしまう。そうなると、議定(評議)にも参加できなくなります。また、関白になると、天皇の補佐を担当することになるのです。そうなるよりは、内覧・一上にとどまって、直接、政治運営に携わるほうがいいと道長は判断したのでしょう。

また、道長は、三条天皇が皇太子の頃に、娘・妍子を嫁がせていました。妍子は、1011年に女御となります。道長としては、次女・妍子が三条天皇の皇子を産んでくれたら、天皇との結び付きをより強固にできるうえに、時と場合によっては、その皇子を帝位にと考えていたのでしょう(しかし、道長の想いはかなわず、後に妍子が産んだのは内親王でした)。

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事