日の出の勢いで出世した伊周は、道長をも追い抜いたが、『大鏡』によると、競弓においても双六においても、やたらと強気な道長に圧倒されて惨敗を喫したらしい。
父・道隆が病に伏せると、後継者たらんと焦ったのか、内大臣でありながら「関白と同じ警護をつけてほしい」と一条天皇に直訴するなど、伊周は暴走し始める。
傲慢な伊周への反発が宮中で高まるなかで、道隆の死後は、道長が内覧・右大臣へと昇格。そんななかで起きたのが「長徳の変」だった。
前代未聞の不祥事への処分は伊周だけにとどまらず、居合わせた弟の隆家も出雲への左遷が決定する。病気を理由に但馬に留まったものの、京からは遠ざけられることとなった。さらに妹の定子も、一条天皇の中宮でありながら、責任をとって出家してしまう。中関白家の栄華は完全に潰えた……かに見えた。
だが、伊周はしぶとかった。ここからまさかの巻き返しをはかることになる。
道長が「伊周を内大臣に」の真意とは?
いったい、太宰府に左遷されたはずの伊周が、いかにして宮中に戻ってきたのか。
それは長徳3(997)年3月25日のことだ。母の詮子が病に伏せて回復しないことから、一条天皇が大赦の詔を下すこととなる。
「常の恩赦では赦免しない者も、ことごとく赦免する」
大赦とは、国家に吉凶があったときに、罪を許すこと。とはいえ、大罪を犯した者については、この限りではない。であれば、花山法皇に矢を放った藤原伊周と弟の隆家については、大赦を適用するかどうかの検討が必要となる。
『小右記』によると、公卿たちが話し合った結果、「罪は恩詔を霑(うるお)すべし」と、罪は軽減するべきだという点ではみな一致したが、都に召喚するかどうかは、意見が分かれたようだ。
道長はというと、自分の意見を明確にすることなかった。一条天皇の結論は初めから決まっていると、踏んでいたのだろう。結局は、一条天皇が伊周と隆家の赦免と召喚を決定している。
というのも、一条天皇は出家した定子を変わらず寵愛し、第1子となる脩子が生まれたばかりだった。定子の兄・伊周を復帰させることで、定子が宮中で過ごしやすい環境を作ろうしたのだろう。一条天皇の「大赦の詔」から2カ月足らずの5月21日に隆家が、さらに半年後の12月には伊周が入京を果たしている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら