「道長も態度一変」運に見放された"伊周の悲劇" 太宰府に左遷された後に巻き返したものの…

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その後、定子は一条天皇の第2子にして第1皇子となる敦康を出産。中関白家がかつての勢いを取り戻そうとするなか、道長は一条天皇のもとに、11歳の娘・彰子を入内させて中宮とするなど、定子に対抗している。

だが、彰子が将来的に一条天皇の子を産むかどうかはわからないなかで、定子は第3子を懐妊。先行きが見えないストレスからだろうか。道長は重病に伏すが、驚くべきことを口にしている。

「前師を本官・本位に復されるように。そうしたら、私の病も治るでしょう」

前師とは伊周のことだ。道長は「伊周を内大臣に復帰させれば、私の病も治る」というのだ。

道長と伊周も新しい関係へと発展するが…

もちろん、一条天皇の本音を探る道長の駆け引きである。それを知っている天皇も、これには応じていない。それでも、伊周がどん底から這い上がり、かつての勢いを取り戻そうとしていたことがよく伝わってくる。

定子が第3子を出産後、まもなくして崩御すると、母を亡くした敦康の養母を彰子が務めて、さらに道長と彰子が後見人になっている。

というのも、一条天皇の次に天皇になるのは、道長の甥で皇太子である居貞親王というのが既定路線であり、居貞親王のもとには、第1皇子となる敦明親王が生まれている。

道長からすれば、居貞親王から息子の敦明親王へと皇位が引き継がれれば、今後、一族が影響力を持つことは難しくなる。現時点で娘の彰子に懐妊のきざしがなく、第1皇子が敦康親王である以上、道長としてはバックアップするほかなかった。

敦康の重要性が増せば、おのずと伯父である伊周の地位も引き上げられていく。長保5(1003)年に従二位に叙せられると、その2年後の寛弘2(1005)年には座次を大臣の下、大納言の上と定められた。

「帥来り」

藤原道長が残した『御堂関白記』には寛弘元(1004)年から、そんな記述が見られるようになる。「帥」とは、藤原伊周のこと。当時、頭痛を患っていた道長を見舞おうとしたようだ。

一度、どん底を知っているだけに、伊周も慎重に地歩を固めようとしたのだろう。道長もまた伊周の詩に唱和するなど、静かな交流が生まれていくこととなった。

しかし、そんな道長と伊周との間に生まれた「新しい関係」も早々に崩壊する。道長の娘・彰子がついに懐妊したのだ。

寛弘5(1008)年9月9日、彰子は産気づくが、なかなか生まれない。しばらく状況は変わらなかったようだ。実資は藤原懐平から伝え聞いたこととして、「小右記」に「已に御産の気無し。但し邪気、出で来たる」と書いている。生まれる気配はなく、邪気が出てきた……というのだから、ただ事ではない。

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