秀吉は領国経営の安定についてはことのほか厳しく、場合によっては肥後を治められず取り潰しになった佐々成政のようになるおそれも。家康にとって関東転封は、まさにプラスの転機となったわけです。
さらに秀吉は「秀頼が成人するまで天下は家康に任せる」と遺言まで残します。
師としての秀吉
秀吉の死後、家康は豊臣政権で最高位の官位でした。秀吉は、幕府という形よりも朝廷の官位によって政権の序列を決めていたので、この時点で家康は名目上も豊臣政権を引き継いだといっていいでしょう。
また秀吉の存命時は、家康はつねに京や大坂にいて、秀吉のもとで国家形成を目の当たりにしてきました。ここで得た国家運営の基礎が江戸幕府に生きます。家康は、中国や朝鮮の侵略以外は外交も含め、多くを豊臣政権から引き継いでいます。
まさに秀吉は家康の「先生」だったのです。
もちろん家康が、それを認めるかどうかは知る由もありません。
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