おそらくですが、これは小田原攻めの前から決定しており、そのことは家康にも伝えられていたのではないかと思われます。もちろん秀吉にしてみれば、もしも家康がこれを拒否すれば軍事的な圧力をかけることも視野に入れていたと思いますが、事前の根回しは完了していたのではないでしょうか。
秀吉は徳川本家だけではなく、次男の結城秀康にも10万石の加増を行っており、家康に対して最大限の気遣いをみせています。それだけ家康は秀吉にとって、天下統一構想の重要なピースだったのです。
関東転封の翌年、秀吉は奥羽の一揆の鎮圧のために、甥の羽柴秀次を総大将とする奥羽再仕置軍を編成しました。家康はこれに参戦し、実質的な指揮をとって奥羽の鎮圧に功績をあげます。秀吉にとっての東北は、伊達政宗をはじめ油断できない面々が揃っており、これをまとめあげるには徳川家康というピースが絶対不可欠でした。
1592年ごろには、家康の下に伊達政宗、南部信直、上杉景勝、佐竹義宣らが名を連ね、家康は「武蔵大納言」と呼ばれていました。まさに豊臣政権における東の要です。
まちづくりの天才でもあった秀吉
秀吉に大きな失敗があるとすれば、それは家康にまちづくりの要諦を伝授したことかもしれません。秀吉は関東転封に当たり、家康に江戸を拠点にすることをアドバイスしました。秀吉の慧眼は、江戸が大坂と同じく海に面しているため交通の要衝となり、町として発展する未来を見抜いていたことです。
秀吉は大坂をはじめ織田時代の長浜など、町を発展させる才能は群を抜いていました。家康はこの秀吉のアドバイスを受け入れ、北条氏の拠点ではなく、まだ葦が一面に生い茂っていた江戸の開拓に着手します。
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