秀吉は天下統一にあたって比較的、寛容な態度で臨んでいました。家康は特別だとしても、実際に征伐した四国の長宗我部氏も九州の島津氏も、その本国については何もしていません。これは、その地域における統治の影響を考えてのことでしょう。
しかし、北条氏に関しては、はじめから滅ぼす意図をもっていたようです。それは家康の関東転封構想が、最初からあったからです。
秀吉は、北条と真田のあいだで起こった小さな紛争に目をつけ、ほとんど言いがかりに近い形で申し開きのための上洛を命じます。当然、北条氏は激しく反発します。家康は両者のあいだを調整しようとしますが、北条氏はすでに家康が関東・奥羽惣無事令の責任者であることから、警戒し調整の条件をのみません。
家康が、北条氏に「北条親子のことを讒言せず、北条氏の領地を望まない」という書状を送っていたことからも当時、家康が北条氏のあとに入るのではないかとの噂が流れていたことが窺えます。結局、北条氏は家康の調停に耳を貸さず、秀吉は予定通り、小田原征伐に踏み切って圧倒的な軍事力で北条氏を屈服させました。
秀吉の天下の構想
北条氏を滅ぼした1590年に秀吉としては予定通り、徳川家から駿河・遠江、三河、甲斐、信濃を召し上げ、代わりに武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野の一部、常陸の一部、つまり関八州と呼ばれる北条氏の領地をまるまる与える決定をします。
この結果、徳川家は旧領150万石から250万石への大幅な加増に。しかし徳川にとっては松平から続く代々の領土からの転封であり、転封される関八州は北条氏滅亡の不安定な状態に加え、見込みほどの石高はないと言われるなど、この人事が徳川家にとってプラスだったかマイナスだったかは後世でも評価がわかれています。
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