そのモデルは大坂でした。家康は大坂から職人や商人を招き、まちづくりに取り掛かります。この結果、江戸は近世において世界最大の都市になるわけですから、ある意味、秀吉は江戸の産みの親であるとも言えます。
さらに、このころ秀吉は朝鮮への出兵を始めていましたが、家康はこの計画には参画していません。家康は東日本の要であるということから、原則的には朝鮮出兵は監督外ということになったようですが、これも秀吉の気遣いのあらわれでした。
秀吉は家康を信頼していた
もしも秀吉が家康を危険視しているなら、朝鮮出兵に参画させて軍事、財政の両方を疲弊させることもできたはずです。それどころか秀吉は、甥の秀次を処刑したあと、家康を内大臣に昇進させました。これは秀吉の次にあたる官位です。
秀吉の家康に対するゆるぎない信頼がみてとれます。結果的に、諸大名が朝鮮出兵によって疲弊する中、徳川は無傷で、その軍事力と財力を蓄えていくことになるのです。
もしも家康が関東に転封されなければ、おそらく朝鮮出兵に参戦させられていたでしょう。さらに家康の旧領であった三河や遠江は、長く続いた戦いにより疲弊していました。ここに朝鮮出兵が加われば、その不満は一揆などの形で表れたかもしれません。
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