世にあふれる「教養」という言葉
今、学校教育のみならず、社会人教育の場においても盛んに「教養」が語られ、この言葉を聞かない日はありません。
岸田文雄内閣が「新しい資本主義実現会議」を立ち上げて以降、「資本主義」という言葉が盛んに聞かれるようになったのと同じような状況です。
「教養」と名のつく本も山のように出版されていて、「教養としての〜」というのが、今や本を売るための1つの枕言葉のようになっています。
私自身も教養についての講演を頼まれることが多く、特に読書とひも付けて教養の重要性について話す機会が増えています。
私の近著『読書大全』の中では、リベラルアーツの歴史を解説するところで教養についても触れていますが、そこでは教養そのものについては深く論じていません。教養について語るのであれば、それだけで独立した本になってしまうほど大きな題材だからです。
ただ、そうは言っても、教養について話しながら、自分自身で「そもそも教養って何だろう?」と思うことがあります。
私の中では、教養についての一定の思いはあるのですが、それが世間一般で言われている教養とどう違うのか、そもそも世間では教養はどう理解されているのかといったことを突き詰めてはきませんでした。
しかしながら、世の中でここまで「教養」が語られるようになると、一度この問題はきちんと整理しておいたほうが良いだろうと思うようになりました。そもそも教養とは何かがわからなければ、なぜそれが大切なのかを説得力をもって論じることができないからです。
考えれば考えるほど教養というのは奥が深く、単なる知識や学歴といった表層的なものではなく、私たちが人生を生きる意味そのものに関わってくる重層的かつ広がりがある問題だということがわかってきます。
そこで、この東洋経済オンラインの場で、これから教養に関するさまざまなテーマを整理していきたいと思います。
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