前回「日本で「教養主義」が失われた2つの納得する訳」では、教養は歴史的にどのように議論されてきたのか、教養にはどのような解釈があるのかを解説しました。
今回はそれを受けて、私自身が教養をどのように考えているのかについて説明したいと思います。
私が考える「教養」論
教養を「知識」と「人格」という視点で見た場合、古代ギリシア・ローマから現代アメリカに受け継がれたリベラルアーツ主義は、全人教育の側面はありますが、どちらかといえば知識獲得にウエートがかかっています。
他方、ドイツのビルドゥング的な人格主義的教養主義肯定論では――日本においてはこちらが大正教養主義以来の伝統でしたが――人格形成により大きなウエートがかかっています。
これらに対して、私が考える教養というのは、どちらでもない第三の道です。つまり、博覧強記の知識人でも、宗教家や思想家のような人格者でもない、より実践的な教養人の姿です。
私は、自己実現のための「積極的自由」という視点から教養を考えています。ここで言う積極的自由については、イギリスの哲学者アイザイア・バーリンの『自由論』が参考になります。
バーリンは、自由を積極的自由と消極的自由に分けて論じています。
積極的自由が「~への自由」と呼ばれる、自己の意志を実現できる状態にあることなのに対して、消極的自由は「~からの自由」と呼ばれるもので、他者の強制的干渉がない状態のことです。
つまり、人としてこの世に生を受け、一回限りの人生を生きるのなら、その中でできるだけ悔いのない人生を送ろう、与えられた生を完全燃焼しよう、そしてその実現のために教養を身につけようということです。
新約聖書のヨハネによる福音書8章32節に、「真理はあなたを自由にする」という言葉がありますが、宗教的な視点を除けば同じようなニュアンスです。
ちなみに、この言葉は、世界中の大学や図書館で標語として使われています。
たとえば、国立国会図書館本館のホールには、国立国会図書館法前文の一部である「真理がわれらを自由にする」という言葉が刻まれています。ハーバード大学の紋章にある有名な“VERITAS”という言葉も、「真理」を意味するラテン語です。
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