「教養」を習得すべき"たった1つ"の本質的理由 教養とは「善く生きる」ための実践知である

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ここまでの個人の自由に焦点を当てた議論を読んで、私が個人の自由や幸せだけを追求する独善的な生き方を奨励しているかのように受け取る人もいるかもしれません。

そうした誤解を避けるためにここで強調しておきますが、私は個人主義に徹するべきだと言っているわけではありません。

アリストテレスは『政治学』の中で、「人間はポリス的(政治的)動物である」と言っています。

ここでは詳しく解説することはしませんが、私たち人間はそもそも共同体的・社会的な動物であり、集団を形成することでしか生きていくことができません。つまり、狭義の個人主義では、結局は個人を幸せにすることはできないのです。

このように理解すれば、「どうしたら私たちは善く生きられるのか?」の「私たち」には、「家族」「友人」「会社」だけでなく、「社会」や「世界」も含まれることがわかります。

自分の周りの社会をどの範囲で捉えるかは人によってさまざまだと思いますが、ウクライナ戦争や世界各地での紛争、難民問題をはじめとする人権問題、さらには全地球的課題である地球温暖化や国連SDGs(持続可能な開発目標)なども含めて自分事として考えられるのであれば、「私たち」の範囲は世界全体にまで広がることになります。

このように、教養というのは、私たちが「善い人生とは何か?」「善い社会とは何か?」を議論していくための重要な手掛かりになると同時に、それを実現するための実用的な手段でもあるというのが私の理解なのです。

教養とは「善く生きる」ことの実践

それをもう一段突き詰めていけば、じつは教養というのはたんなる手段ではなく、それ自体が身体知を伴った実体のある目的であり、「善く生きる」ことの実践にほかならないのだと考えています。

映画監督の黒澤明の代表作に、ベルリン国際映画祭で銀熊賞とベルリン市政府特別賞も受賞している『生きる』(1952年)という名作があります。

ある市役所の平凡な市民課長が、胃癌で余命わずかであることを知らされ、自らの生きる意味を市民公園の整備に見い出す姿が描かれています。

本作は、役人が不治の病にかかり、死の恐怖と孤独にさいなまれながらやがて諦観に至るまでを描いた、文豪トルストイの小説『イワン・イリッチの死』が元になっています。

この『生きる』のリメイク作品が、ノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロが脚本を手掛けた『生きる LIVING』(2022年)です。

舞台はイギリスに移され、1953年のロンドンを舞台に、役人のウィリアムズが癌で余命半年を宣告され、自分自身の人生を見つめ直す姿を描いています。

この映画で語られているのは、平凡な日常の中にあって、たとえそれがどんなに小さなことであったとしても、私たちは意義あることを成し遂げられるということです。

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