思うに、学歴問題に関して人々の態度が分裂しているのは、社会的な問題としての学歴と、個人的な経験としての学歴が、完全に乖離(かいり)しているからだ。こういうことは学歴に限らずよくある。財政問題という枠組みで語る限りにおいては、健全な税収の確保に反対する人間は少数派だ。が、誰だって自分が税金を払う段になれば違う理屈を持ち出すに決まっている。って、ちょっと違う気もするけど。
反学歴主義者も自分の子の進学問題だと別の態度に
たとえば、受験期の子供を持つ父親がいる。
会社の帰りに同僚と一杯やりながら話す時、山田慎太郎・四十七歳は一人の典型的な反学歴主義者だ。スナックのカウンターに座って水割りのグラスを傾けつつ、山田課長は、学閥の横行を憂え、受験戦争の激化を嘆いている。そう、彼は、一般論としての教育問題や組織論としての学歴システムを語る限りにおいては、どこまでも真摯(しんし)なリベラリストなのである。
ところがその同じ山田慎太郎が、自分の息子の進学問題については、まったく別の態度を取る。
たとえば、息子が算数で45点みたいな点数を取ってきたりしたら最後、リベラリストの仮面なんてものは、ひとたまりもなく剥がれ落ちてしまう。
「ばかやろおぉおお!」
とブチ切れて、怒鳴り散らす。
たとえば中学三年生の息子がこう言ったら彼はどうするだろう。
「良い高校に入って良い大学を出るのが良い人生なの?」
父たる慎太郎は息子の疑問を一顧だにしない。
「ぐだぐだ言ってないで勉強しろ」
そう、受験の意義だの勉強の目的だのといった屁理屈は高校に受かってからゆっくり考えれば良いと彼は断言する。
山田のオヤジはウソを言っているのではない。スナック、茶の間のいずれの場面でも、彼はまったく正直に自分の真情を吐露している。ただ、彼のアタマの中では、世間話としての学歴問題と、進路問題としての息子の受験がまったくリンクしていないのだ。
フェアウェイでクラブを握っている男が、ゴルフ場開発に伴う森林破壊の問題なんかに心をわずらわせるだろうか? 否。誠実なゴルファーは、スウィングのことしか考えない。というよりも、ゴルファーの誠実さは、失われゆくブナの原生林に対して発動されるような抽象的な種類の感情ではなく、スウィングという物理的な運動によってしか表現され得ないものなのだ。