そんなわけで、山田のオヤジの中では、受験戦争が不毛であることと、息子の偏差値の向上を願うことは、まったく矛盾しない。もちろん、学歴はくだらないものだと山田は思っている。が、彼は息子に言う。
「おまえの言う通り、受験勉強はくだらないものかもしれない。でも、そういうくだらないものが世界を動かしているんだよ」
テレビで教育問題を語ったりしている文化人の先生方も、いざ自分の子供の問題になると、ただのお受験パパだったりする。
一例を挙げるなら、ある小説家の先生が、息子をK大学の付属校に入れるためにかなりムキになって奔走したという事実を私は知っている。
おかしいのは、その先生が、体制批判の急先鋒であり、自らの小説作品やエッセイの中では、完全な反学歴主義を展開していることだ。
皮肉だよね。
ともあれ二言目には
「集団への帰属意識だけを頼りに生きている醜い日本人」
「自分自身の個性と対峙(たいじ)しようとしない卑怯な日本人」
てなことを言っているその先生が、父母面接のためにスーツを新調して髪を刈った姿は、まさに彼の言うところの卑怯な日本人そのものであったのだそうだ。この話をある編集者さんから聞いた時、私は、なんだか暗澹(あんたん)たる気持ちになった。結局、思想なんてものは何の力も持っていないのだ。学歴のもたらす実利を目の前にすると、反学歴思想なんていう脆弱(ぜいじゃく)なオピニオンは雲散霧消してしまうわけですね。
学歴は一種の戦争なのかもしれない
あるいは「受験戦争」という的確なネーミングが暗示している通り、学歴は、一種の戦争なのかもしれない。
どういうことなのかって?
なぜ戦争が起こるかわかりますか?
人々が人殺しを望んでいるからですか?
違いますよね。
誰も人を殺したいとは思っていません。おそらく、人を殺して良い気持ちになる人間なんて、一万人に一人もいないでしょう。
それでも戦争が起こってしまったら、多くの人々は銃を持つことになる。
なぜだろう?
たぶん、人を殺したくない以上に、見ず知らずの人間に殺されたくないからだ。
戦争が起こってしまったら、殺さない限りは殺されるわけで、とすれば、銃を持たないわけにはいかない。