学校から社会に出ると「クラス」は「階級」に
「クラス」の最も一般的な訳語は「学級」だ。少なくとも学校の中ではそういう意味で使われている。
しかしながら、一歩社会に出ると「クラス」は、「階級」を意味している。英語で言う“class conflict”はそのまま「階級闘争」だし、“class difference”は「階級格差」ということになる。
なるほど。
ということになると、「クラス仲間」とか「クラス対抗」といった常套句も、にわかに生臭い響きを持って聞こえてくるではないか。
「クラス」の漢語訳として使われる「級」が、「ランク=等級」の意味を含んでいるのも偶然ではない。たとえば、女性向けファッション誌が、ブランドものバッグの写真キャプションで「クラス感のある」といった表現を使った場合、そこには「貴族的な」「ハイソサエティーらしい」といった階級意識丸出しのニュアンスが含まれている。
公務員に支払われる俸給が、「二級五号俸給」「六級十三号俸給」という具合に、「級」と「号」の組み合わせで表現されていることもまた偶然ではない。ここにおいては、働く者の地位そのものが「級」=クラスとして序列化されている。
学校におけるクラスも同様だ。それは単なる集合名詞ではない。序列と選別の意味合いを含んだ立派な階級である。
いや、むしろクラスが学級の意味を持つこと自体が、そもそも生徒をランク付けしたことに由来しているわけで、語源としての「クラス」は、はじめから「階級」だったと言った方が正しいのかもしれない。“the class”は、文字通り「上流階級」「知識階級」だし、“the classes and the masses”という英語の慣用句において、the class(上流階級)とthe mass(大衆)は、まったくの対義語として扱われている。
結局、クラスや級による分類は、人間に序列をつける行為、言い換えれば「差別」そのものであるわけだ。
早まってもらっては困る。
私はクラス分けがいけないと言いたいのではない。
いけないどころか、クラスは、学校にとって必要不可欠な構成要素だ。
学校が教育施設であり、学問修得の場である以上、成績別なり達成度別なりで生徒が序列化され、あるいは選択科目別や進路別といった基準に沿ってクラス編成が行われるのは、運用上の必然であり、言ってみれば学問の本能のようなものだ。なんとなれば、学問の起源はそもそも分類に始まるものだからだ。