社会に階級があるのがいけないと言おうとしているのでもない。
「無階級社会」というのは、言葉つきとしては美しいが、実現できるかどうかは別問題だ。また、階級の存在自体、良いとか悪いとかの議論になじむ対象ではない。いずれにしても「階級」という左翼じみた用語を使うまでもなく、われわれが暮らしている世界には相異なる所得層があり、社会的階層があり、職業的な役割分担があるわけで、そうした有機的な機能分化が存在してないと人間の集団が有効に機能しないことは確かなのだ。
問題は、学校現場におけるクラス分けが、社会的な階級選別とモロにリンクしているシステムのあり方だ。
むろん、こんなことを手柄顔に指摘してみたところで、いまさらどうなるものでもないことは承知している。ただ、私としては、そもそもが旧弊な身分制社会の桎梏(しっこく)から近代の人間を解放する役割を果たしてきたはずの学歴システムが、いつの間にやら階級固定の道具になっている現実を一度しっかりと分析しておきたいわけなのだ。
クラスの話にもどる。
クラスは、内部にいる者にとっては「平等」と「共感」の場である。
クラスメイトたちは、同じ教室で、同じ授業を受けながら、同じような青春の時を過ごし、あるいは友情を育み、恋をし、競い合い、助け合いながら成長していく。
外の人間に対しては「差別」「排他性」「序列」の象徴
しかしながら、一方で、クラスは、クラスの外の人間に対しては「差別」「排他性」「序列」の象徴として機能している。
進学クラスと就職クラスはまったく別の空気を宿しながら、双方の教室に属する生徒たちを次第に疎遠な存在に変える。ここにおいて、「クラス」は、明らかに「ランク」であり「階級」であり、さらに言うなら人間に付けられた等級そのものである。
そして、「クラス」の結果としての「学歴」は、学校を出た後でも「クラス」として機能する。
舟木一夫が歌った「高校三年生」の中にそんな意味の歌詞があったが、実際、クラスは、生涯にわたって消えることのない烙印であり、クラスメイト同士の連帯感がいかに麗しいものであっても、部外者(あるいは実社会)に対してクラスが果たしている役割は一種の階級標識なのである。
さて、ランク付けという行為そのものは、別に非難されるべきものではない。
それどころか、人間が物事や他人にランクをつける作業は、文化的な営為と言って良い。
たとえば、面白い本とつまらない本があり、良い音楽と悪い音楽がある。うまいワインがあり、まずいワインがあり、その中間に属するワインがある。もちろん、人それぞれで、ランクのつけ方には違いがある。そして、そういうふうに個人的ランキングの順位に個性が反映されているからこそ、この世界にも多少の面白味が残されているわけだ。