かように、ランクというのは、本来は、個人的な価値意識の表れであり、その限りにおいては、人生を豊かにするものだ。
しかしながら学歴ランキングは、その序列がおよそ画一的かつ平板であるという特徴を備えている。しかもその影響力は不当に大きい。であるから、結果として、学歴は、学歴以外の多様な価値やものの見方を圧殺する「反価値」(ハンカチだってさ)として、この国の老若男女を窒息させることになる。
結論を述べるなら、学歴は、「価値意識」という最も個性的であって然るべきものを、序列化・画一化する個性圧殺のシステムなのである。
学歴によらないランキングの多くはいたって無邪気なものだ。たとえば、ある男はゴルフのうまい男が男として最高であると考えているし、別の男は、女にモテることが一番だと思っている。で、一方の男は、ゴルフのスコアに沿って人間をランク付けし、もう一方の男は嫁さんの美醜で人に優劣をつけている。こうした私的なランキングは、もちろんそれなりの力を持ってはいるが、しょせん個人の考えに過ぎない以上、影響の及ぶ範囲も限られている。
全人格に対する絶対的な評価基準として通用
一方、学歴は人間性のごく一部分を一面的に表現した属性であるに過ぎないにもかかわらず、全人格に対する絶対的な評価基準として通用してしまっている。こんなべらぼうな話があるだろうか。
それぞれの人間が、それぞれに偏った価値観なりランク付けの基準を持っているということは、言い換えれば、個々人に固有の哲学(つまり世界観と人生観)があるということで、これは、大いに健康なことだ。人々の考え方や見方が色々な場面で違っているからこそ、日本のような向こう三軒両隣の閉鎖社会にも多少のバラエティーが生まれているわけなのだから。
学歴についての判断も、それがワインの好みみたいな調子で評価がバラけているのなら、こんなに息苦しいことにはなっていないだろう。
では、どうして「学歴」のランキングは、バラけないのだろう。
T大よりN大の方が好きだという人が全人口の3割ぐらいはいても良さそうなものだし、K大学よりD大学を高く評価する企業がもっとたくさん現れれば、ママだってお受験ヒステリーにはならないだろう。
が、そんなことにはならない。
というのも、日本人のほぼ全員が関わっているこのランキング作成作業である学歴は、「客観的な価値」であるという世評を確立してしまっているからだ。そして、その「客観的な価値」は、人々が様々な分野について抱いている「主観的な価値」をまったく問題にしない影響力を持っているからだ。