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生誕100年、沖縄と日本本土の溝を象徴する学者政治家・大田昌秀の人生。独立論に傾いていった苦悶と日本政治への絶望

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大田昌秀知事とクリントン大統領
1996年4月に都内のホテルでクリントン大統領と言葉を交わした大田昌秀沖縄県知事。「基地を見てほしい」と伝え、大統領は困惑した表情をみせた(写真:共同通信)

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戦後80年の今年は、沖縄問題を深く考えるべき年になりそうだ。自民党の西田昌司参議院議員が那覇市のシンポジウムで「ひめゆりの塔」の展示を「歴史の書き換え」と述べたことは、沖縄県民の怒りを引き起こした。いまだに悲惨な沖縄戦の史実が日本の政治家、さらに国内で理解されていないのではないかという不信感を強めた。

80年、30年、100年と重なる3つの周年

また沖縄では米兵による事件・事故が絶えないが、特に女性への性犯罪が近年多発している。今年は1995年9月、12歳の少女が3人の米兵に暴行された事件から30年目にあたる。

この事件で戦後の沖縄への基地負担に対する県民の不満が爆発し、日米地位協定見直しと米軍基地縮小の要求が高まった。これを受けて1996年4月、普天間飛行場の返還が合意されたが、返還条件である移設工事が名護市辺野古で県内の反発の中で現在も進められ、基地負担が軽減されているという実感はない。沖縄問題は、日本の「戦後」の課題を集約しているのだ。

今年は、1995年の少女暴行事件やその後の普天間返還問題に沖縄県知事として取り組んだ大田昌秀(2017年死去)の生誕100年にもあたる。沖縄戦を体験し、琉球大学教授や沖縄県知事を務めた大田ほど、その人生が激動の沖縄の近現代史と軌を一にしている人物はいない。

大田は現在公開中のドキュメンタリー映画『太陽(ティダ)の運命』(佐古忠彦監督)の主人公の1人でもある。基地問題をめぐって日本政府に対峙した沖縄のリーダーとして近年再び注目を集めている。

戦後80年の節目において「沖縄の語り方」を考えるうえで、沖縄が背負った歴史と課題を理解することが不可欠であり、大田昌秀の人生を知ることはその重要な糸口になる。それはひいては日本の「戦後」とはなんだったのかを考えることになるだろう。

大田昌秀は1925年6月12日、沖縄県の久米島に生まれた。大田は教員養成学校である沖縄師範学校に進学、そこで学徒隊である鉄血勤皇隊に動員され、1945年3月からの沖縄戦を体験した。

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