英語が下手な人は「主語の大切さ」がわかってない 「単語の置き換え」を始めると必ず行き詰まる
英語をかんがえるときはいつも「主語」を意識する
英語は「構造的な言語」(a structured language)だといわれます。英語の構造性は日本語と比べてみると、それがひときわ鮮明になります。まず、誰でも知っている「主語+動詞」の構造、これが徹底していること。そしてその主語の役割が、日本語と英語では大きく違うことです。
日本語では主語は省略されることが多く、どんな言葉でも主語にできるわけではない、という事実があります。一方英語は、必ず主語があり、しかも何でも主語にすることができます。ですから私たちとしては、英語を考えるときはいつも、特に主語を意識することが必要です。
「源氏物語」の有名な冒頭の部分に、こんな文があります。
「朝夕の宮仕につけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけん、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。」(桐壺)
これは1センテンスですが、主語が一切ありません。しかしよく読むと、細かい言葉の意味はさておいても、「いよいよあかずあはれなるものに思ほして」から主語が変わることがわかります。「谷崎源氏」として知られている谷崎潤一郎の現代語訳はこうなっています。
「そんなことから、朝夕の宮仕えにつけても、朋輩方の感情を一途に害したり、恨みを買ったりしましたのが積り積ったせいでしょうか、ひどく病身になって行って、何となく心細そうに、ともすると里へ退って暮すようになりましたが、帝はいよいよたまらなくいとしいものに思し召して、人の非難をもお構いにならず、世の語り草にもなりそうな扱いをなさいます。」(『新々訳源氏物語』巻1、中央公論社、1965、15版、3ページ)
これは原文の区切り方に忠実に訳されています。前半の主語は依然ありませんが、後半に入るところで「帝(みかど)は」と、主語が説明として加えられています。前半の主語は、もちろん別人で帝が寵愛する女御というわけです。
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