安河内:基地の近くに住んでいた方の反応って2つに分かれませんか? 英語やアメリカに対する抵抗をもたれる方、逆に親しみを持たれる方。先生は後者だったんですね?
千田:ええ、完全に。最初に話したように、捕虜だった父親が命を助けられたというのもありましたし。
88歳の元米兵と交わした思い出の会話
千田:話が飛びますけど、日米の元兵士が集って仲直りのベースボール大会がハワイで2007年に開かれたのです。真珠湾の近くの野球場でね。そのイベントのボランティア通訳に欠員が出て、ピンチヒッターとして急きょ現地に行きました。そのときに、「父親がフィリピンの戦争捕虜で、アメリカ兵に助けてもらい、感謝します」という旨を英語で記した名刺を作って持参しました。
集まった元米兵に配っていたら、当時88歳のWaltさんという方が、「実は私はフィリピンにいた」と話かけてきました。当時、捕虜のinterrogator(尋問者)をしていたと言うんです。捕虜を尋問して死刑の宣告をしたりする、命の仕分けをする人ですね。その彼に僕の家族の写真を見せたら、泣き出してしまいました。
「もし、私があなたのお父さんを死刑だと宣告していたら、この写真に写っている命が全部ないんだね……」って言いながらね。
たまたま、ハワイで出会った退役米国軍人とのそんなやり取りは、自分の中で大きな思い出として胸に刻まれています。あのときほど「英語を勉強していてよかった」と感じたことはなかったですね。
英語を学ぶきっかけも父親、英語をずっと勉強して使ってきた中で最もよかったと感じた瞬間も、父親がらみでした。英語の表現をたくさん学んだとか資格を取ったとかよりも、捕虜収容所で命拾いをした父親を尋問したかもしれない人と対面できたこと、いわば「命の原点に会えた」という体験がいちばんうれしかったです。
安河内:英語の原点がぎっしり凝縮されたストーリーですね。では、八戸の中学校での1960年頃の英語の授業って、どんな感じだったのですか?
中学で英語が大嫌いに!
千田:家で単語を調べてきて、授業で「立って、読んで、訳す」の繰り返しですよ。
安河内:いわゆる、昔ながらの日本の英語教育の王道ですね。
千田:そのとおり。実は自分が中3のときに書いた作文が手元に残っているのですが、書き出しは「僕は、前々から英語が不得意だ」です。本当に嫌いでしたね。
安河内:英語に対する強烈なあこがれや好奇心はあったけれど……。
千田:英語の先生は好きでしたが、単調な授業を受けているうちに、面白くなくなってしまったのです。
安河内:高校もその延長戦ですよね、きっと?
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