一度この象牙の塔から出てみよう
著書に書いたように、アメリカの大学院では、学生は先生に自動的に配属されず、「就職活動」をして雇ってもらわねばならない。
入学当初、僕は先生たちに認めてもらえず、雇い手が見つからなくて苦労したのだが、成相さんも同じ状況だった。にもかかわらず、行けば何とかなるだろうと楽観的に考えていたのも僕と似ていた。そして、簡単には見つからなかったのも同じだった。
半年ほどしてようやく空いているRAのポジションを持った先生を見つけたのだが、すぐには雇ってもらえなかった。その先生は、成相さんの能力を確かめるために、東大時代の指導教員に推薦文を書いてもらうことを要求した。指導教員が成相さんを評価するメールを書いてくれたおかげで、無事にRAを取れたそうだ。
その後、彼は順調に研究成果を出し、3年目にして早くも卒業が見えてきた。しかし一方で、細分化された学問分野のほんの小さな1ピースの中で、ともすれば浮世離れした研究に精魂を注ぐアカデミアの世界に息苦しさも感じていた。だから、卒業後は就職して、一度、この象牙の塔から出てみようと思った。なんとはなしに大手外資系金融の面接を受けてみたところ、あっさりと受かってしまったので、行ってみることにした。
リーマンショック後の外資系金融、そしてベンチャーへ
そうして彼は東京に戻り、金融の世界に身を投じた。デリバティブなどの商品開発を行う仕事だった。確かに面白い仕事だったし、彼のコンピュータのスキルも生かすことができた。だが一方で、一生、この仕事をやっていくのかと自問すると、そうとは思えない部分もあったという。当時はリーマンショックの直後で、自分がやっている仕事が社会に混乱を来たす原因となりうることに、後ろめたさを感じることもしばしばあった。
そんな頃、東大時代の友人から、一緒に技術ベンチャーを経営しないかという誘いを受けた。バイオインフォマティクスの仕事だった。彼が金融の世界にいる間に、バイオインフォマティクスの世界では高速で遺伝子配列(ゲノム)を読み取る次世代シーケンサーが登場し、面白い時代になっていた。
このタイミングを逃すと一生後悔すると思った彼は、金融の世界を去り、友人の話に乗った。4人の仲間たちは全員が腕利きのプログラマーで、全員が会社の経営者兼技術者だった。ビジネスは順調で、参加1年目は社員ひとり当たり1000万円近い売り上げを得た。
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