僕は「グローバル人材」という薄っぺらい言葉が好きではない。
なぜ好きではないかについては、著書に詳しく書いたので、それをここで繰り返すことはしない。その代わりに、世間一般からは「グローバル人材」と思われている人たちの生身の姿を描写することによって、いかにこの軽薄なカタカナ言葉が無意味か、そして本当に意味のあるものとは何なのかを伝えることを試みようと思う。
今回から3回にわたって、僕がMIT時代にボストンで出会った5人の日本人留学生のストーリーを描く。彼ら、彼女らは皆、僕が心から尊敬する友達たちだ。
その経歴や肩書きだけを見れば、成功の階段を一気に駆け上がったエリートにしか映らないかもしれない。だが、「経歴」などという、たった百文字やそこらの事務的な文字の並びから、その人の何がわかろうか。
身近で苦楽をともにしてきた僕は知っている。人からは「エリート」と思われている彼らだって、広いアメリカ社会の片隅で、言葉や文化の壁に苦しみ、何度も失敗を経験し、苦労し、悩み、迷い、それでもそれぞれの目標に向かって真摯に努力を重ね、そしていくばくかの幸運と出会いにも恵まれ、今の場所までたどり着いたことを。そして、「グローバル人材」だなんていう軽薄な言葉では語ることのできない、人間味にあふれた人たちであることを。
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