閑話休題。前述のとおりオスカー・ピーターソンは、ノーマン・グランツに発見されて世に出たわけです。ピーターソンは秋吉の中にかつての自分を見いだしたのかもしれません。今度はピーターソンが秋吉を発見してに世に出す番、というわけです。グランツに掛け合うと、グランツは尋常ならざる速さで動きました。さすが敏腕プロデューサーです。JATP 公演のわずか5日後にレコーディングを手配しました。しかもサイドメンがすごいのです。
まず、オスカー・ピーターソン・トリオから、ベースの巨匠レイ・ブラウンとギターのハーブ・エリスが参加します。ドラムは、エラ・フィッツジェラルド・クインテットからJ・C・ヘラルド。鉄壁のリズム隊です。本場アメリカの超一流のメンバーを率いる若き23歳の秋吉敏子。その勇姿が「Toshiko Akiyoshi」として永遠に刻まれています。
最先端のジャズ・ピアノ
デビュー盤には、そのアーティストのすべてが宿っていると言います。その通りです。ジャケット・デザインには、当時のアメリカ人が日本に抱く異国趣味が反映していますが、ここにある音楽は、紛れもなくビバップ革命を経てハードバップに突入せんとする時代の最先端のジャズ・ピアノです。
全8曲、約24分。スタンダード曲のコール・ポーター作曲「愛とはなんでしょう」などの間に、秋吉のオリジナル「トシコズ・ブルース」も収録。これを聴けば、後年、ピアノ奏者を超えて作編曲者、バンド・リーダーとして大成する萌芽が感じられます。
この後、秋吉敏子は、ピーターソンの支援を得て、日本人初のバークリー音楽院留学。卒業後は、ニューヨークのジャズ界で頭角を現していきます。
ジャズの本場ニューヨークには、世界中から一騎当千の猛者たちが集まります。苛烈な競争です。が、秋吉敏子は独自の地位を築いていきます。1962年10月には、チャールズ・ミンガス楽団に参加します。ジャズの進化を担ってきたミンガスの厳しい審美眼にかなったわけです。ブルーノートから発表された実況録音盤『ザ・コンプリート・タウン・ホール・コンサート』に秋吉の演奏が克明に刻まれています。これは、ピアニストとしてメジャー・リーグでプレーしている証しでもあります。
時は流れ、2018年11月、カーネギー・ホールで秋吉敏子の米寿を祝すコンサートが開催されました。この日、秋吉が選択した最後の曲は「フェアウェル」。ミンガス逝去に接して彼女が書いたバラードの美しい響きがホールを包み込みました。
秋吉敏子、すごい日本人がいます。ぜひ、聴いてみてください。
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