ジャズの本場で認められた秋吉敏子の軌跡 新しい時代を開いた「アメイジング・トシコ」

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戦後まもなく「スゴい日本人女子」の評判を得た秋吉敏子の人生を振り返ります(写真:AP/アフロ)

新年も早いもので2週間余りが過ぎました。何事につけ動きの速い時代です。お屠蘇気分は遠い過去のことで、日々目の前に降り注ぐ難問奇問に取り組まざるをえない。それが今日的なビジネスパーソンというものでしょうか。特に、世界を舞台に海外のライバルを相手に闘っている方々は息を抜く間もないほど超多忙なことでしょう。

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ですが、温故知新とも言います。深呼吸して来し方を振り返ってみるのも悪くないはずです。僕たちの先達には、あふれる才能と刻苦勉励とひと匙の運で世界に飛び立った偉人たちがいます。もちろん、ビジネスパーソンだけでなく音楽家にも。そして、そこには、聴く者をインスパイアーしてやまないチャレンジ精神があふれています。

というわけで、今週末の音盤は、秋吉敏子の『アメイジング・トシコ・アキヨシ』です。アメリカ盤は『Toshiko’s Piano』という表題となっています。

奇跡的にして運命的な出会いの賜物

この音盤は、秋吉敏子が弱冠23歳で録音したデビュー盤です。アメリカのヴァーヴ・レコードの前身ノーガン・レコードから発表されました。

と書いても、その後の秋吉の活躍や彼女の天才をすでに知っている人々は、遅きに失したデビューだと感じるかもしれません。しかし、この音盤は奇跡的にして運命的な出会いの賜物です。この出会いがなければ秋吉敏子が世に出る機会もなかったかもしれません。

まず、この音盤の時代背景を少しだけ。録音は、1953年。昭和28年の11月13日と14日の2日間です。日本が太平洋戦争に負けてからわずか8年後の出来事です。サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効してGHQの占領が終わった翌年のことです。いまだ日本のあちこちに戦争の傷跡が生々しいなか、美空ひばりの「リンゴ追分」が人々を勇気づけていた時代です。

そんななか、ジャズは日本社会の中で徐々に受け入れられていきます。それまで日本人が聴いていた歌謡曲や演歌とはまったく異なるジャズの響きは、新しい時代の自由の象徴だったのかもしれません。

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