ジャズの本場で認められた秋吉敏子の軌跡 新しい時代を開いた「アメイジング・トシコ」

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さて、秋吉敏子です。1929(昭和4)年12月12日に満州で生まれ。小学1年生のとき、モーツァルトの「トルコ行進曲」に憧れてピアノを習い始め瞬く間に上達します。が、15歳のとき、終戦。翌1946年、大分県に引き揚げます。終戦直後の物資の不足した大変な時代、彼女は、別府にあった駐留米軍用のダンスホールのピアノ弾きとしての仕事を始めます。クラシック・ピアノの立派な基礎があったからです。

が、ここで異質なジャズと出会うのです。そして、ジャズに魅せられ、瞬く間に腕を上げ、地元で評判になります。同時に、ジャズをもっと勉強して極めたいと思うようになったと言います。

本物のジャズへの覚醒

1948年、上京します。秋吉18歳の決断です。さまざまな楽団に客演し、腕を磨きます。確固たる基礎のうえにバド・パウエルをはじめ本場のジャズを聴き込みます。そして、秋吉ならではのジャズが育まれていきます。強力な左手が奏でるリフで曲の骨格をつくり、右手で粒のそろった高速フレーズを繰り出します。

それは聴衆を金縛りにしました。1951年、秋吉21歳のときには、彼女自身がリーダーとなるコージー・カルテットを結成。若き日のナベサダも参加していました。進駐軍キャンプなどで本場顔負けの熱くてクールな演奏を繰り広げます。ジャズ関係者の間では高い評価を得始めます。

が、日本人客を相手にしたジャズ・クラブでは、秋吉の本格的ジャズは進歩的すぎました。クラブ・オーナーが客の楽しめるジャズを演奏するように依頼しても、「そんなものはジャズじゃない」と拒否します。若く純粋で才能にあふれた秋吉は、モーツァルトを彷彿させます。実際、駐留米軍キャンプ以外の仕事が激減したと言います。しかも、前述のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の発効で駐留軍も縮小していきます……。

そんなころ、1953年11月。アメリカから本格的なジャズ楽団が来日します。稀代の興行師ノーマン・グランツ率いるJATP楽団です。Jazz At The Philharmonicを名乗り、超一流の名手たちを引き連れてアメリカ国内、カナダ、ヨーロッパを演奏旅行する一座です。戦後の日本にやってきた本場のジャズの第1陣です。

そこには、エラ・フィッツジェラルドやオスカー・ピーターソンという有名人も参加していました。羽田空港から銀座までオープンカーによるパレードが敢行されたほどの重大な出来事でした。11月4日、7日、8日に行われた公演は「JATPイン東京」として実況録音されています。

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