そんな多忙な日程のJATPメンバーですが、公演で訪れた街の地元ミュージシャンとの交流は楽しみでもありました。オスカー・ピーターソンは、特に、東京に米陸軍兵士として駐留していた名ピアノ奏者ハンプトン・ホーズと会うのを楽しみにしていたと言います。その名手ホーズは、非常に人懐っこい人柄で日本人ジャズ奏者と親しくしつつジャズの神髄を授けていました。敬意を込めて“馬さん”と呼ばれていました。このハンプトン・ホーズは、日本人離れした秋吉のピアノを高く評価していました。その縁で、オスカー・ピーターソンが秋吉の演奏を聴くのです。
オスカーは、秋吉敏子の巨大な才能を即座に見抜きます。確固たる基礎のうえに鋭角なリズムで舞う流麗なアドリブは、バド・パウエルを彷彿させつつも女性的なエレガントさを内包しています。この才能を埋もれさせるわけにはいかない。それにふさわしい適切な機会が与えられるべきであると確信し、JATPの座長ノーマン・グランツに進言します。
オスカー・ピーターソンとノーマン・グランツの邂逅
ここで閑話です。実は、ピーターソンのこの動きには重大な背景があったのです。時は、1949年の春。オスカー・ピーターソンが秋吉敏子を発見する4年前です。所はカナダ・トロント。オスカーは24歳で無名のピアニスト。一方ノーマン・グランツはJATPの成功ですでに押しも押されもせぬジャズ興行師でした。
そのグランツがJATP公演の事前準備でトロントに出張。仕事を終えて空港に向かうタクシーの中でカー・ラジオから流れてくるピアノに感銘を受けます。たまたまそのタクシー運転手がジャズ好きで、グランツが誰が弾いているのかと尋ねると「オスカー・ピーターソンという地元の演奏家がトロント市内のアルバータ・ラウンジで弾いていて、この番組は生中継だ」と答えます。
グランツは、即座に行き先の変更を指示し、アルバータ・ラウンジに急行。そこでオスカー・ピーターソンと初対面。JATP公演への出演を依頼しました。翌年ヴァーヴ・レコードから本格デビューします。後は、ジャズの現代史です。
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