日産"ブラジル子連れ赴任ママ”、腹の決め方 1歳、7歳を連れ、いざ地球の裏側へ

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プライベートでも1996年、28歳のときに同じ会社の海外営業の男性と結婚と、充実の20代を送った。

最初の「サバイバル体験」は、30歳のことだ。98年に長男を出産した直後、会社が激変のタイミングを迎えたのだ。そう、99年のカルロス・ゴーン氏、上陸である。

当時の小林さんの働きぶり、生活ぶりは、聞いているだけでめまいがするほど、目まぐるしい。

98年2月に産休に入り、3月に出産。10月には子どもを渋谷区の認証保育園に預け、早くも復帰。翌99年1月には、ルノーが持つ中南米地域の工場を日産自動車が活用するなど、両社の協業体制を整備する「南米CCT(クロスカントリーチーム)」プロジェクトに参画。

つまり、子どもができるという人生の一大事と会社の一大事が、完全に重なったのだ。

「上司もフランス人になり、仕事のやり方もまるで変わりました。それまでは、たとえばメキシコの営業担当だったら、メキシコの法律から大統領選はいつあるなど政治経済まで精通し、事業に関しても生産から販売まであらゆる業務を知り尽くした、“その国の”専門家でした。

しかし、ルノーと提携した以降は、営業だったら営業、経理だったら経理というように、機能(ファンクション)ごとの仕事に一変。これにより、個々人の責任分担がハッキリ明確になり、和をもって尊しとなす今までの働き方が通用しなくなったのです」

時短でないほうが、ストレスがたまらない

小林さんが参画したCCTプロジェクトは、日産自動車社員にその責任分担を伝え、ルノー側ときちんと協業できているか、目標を定めて、その進捗を管理するのがミッションだった。

「当初はフランス人のやり方に日産の社員がついていけず、フランス人が真っ赤になって怒ったり、日産社員が『何だよアイツ』と拒絶反応を起こしてしまうこともあった。私の役目はそこを、『すみません、すみません』となだめて、変化に対応してもらうこと。ルノーとの協業がスケジュールどおり進んでいない部分を修正するのも仕事で、忙殺されましたね」

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